住吉村は六甲山から流れる急流を利用した水車の一大産地であった現在の住吉山手9丁目付近にあった水車群社交の場だった観音林倶楽部。解消の際住吉学園が会館を受け継いだ文書』などに記されている。この頃には後醍醐天皇の内大臣の系譜である吉田家がこの地に定着し、住吉村が成り立ったようだ。戦国時代になると、織田信長と荒木村重の争いで信長方の滝川一益が放った兵火で住吉から芦屋にかけて焼き尽くされたと文書にある。その後、天下を統一した豊臣秀吉の蔵入地となり、江戸時代になると尼崎藩領に編入された。吉田家は有力な大庄屋となり、製油、酒造、海運も手がけるようになる。江戸幕府により政情が安定してくると、温暖な気候を生かして菜種や綿といった商業作物を栽培。菜種や綿実は六甲からの急流を水車で動力に変え、絞って灯明用の油を生産。摂津名所図会』にも「灯油名産」と紹介されており、油絞りの水車仲間は赤塚山に油で常夜灯を灯して、それが沖を航行する船の目印になったという。また、水車は精米や製粉にも用いられ、それが酒造や素麺生産へと繋がった。さらに御影石も産出、西国街道の休息地点として茶屋は盛況、本陣も置かれるなど、さまざ平安時代末期には平清盛の四男、知盛の領地となるも、源平合戦を経て北条政子の父で鎌倉幕府初代執権の北条時政がここを預かったという記録がある。南北朝の頃は北朝南朝入り乱れ争う戦の場となり、鴨子ヶ原にその戦跡の石垣が残っていたが、高度経済成長期の開発で失われている。14世紀中頃は国の直轄領=国こくが衙領の住吉保が置かれていたと『園えんたいりゃく太暦』や『東寺45
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