KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年1月号
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住吉の歴史は悠遠住吉のルーツは、住吉宮町に鎮座する本住吉神社にある。その由緒を紐解くと…201年、神功皇后が三韓征伐から戻る途中、神戸沖で船がぐるぐる回って進まなくなったので占ったところ、天あまてらすおおみかみ照大神を広田に、稚わかひるめのみこと日女尊を生田に、事ことしろぬしのかみ代主神を長田に祀れと神託があり、さらに住吉三神が「我が和魂をば大おおつぬなくらのなが津渟名倉長狭に祀れ、そこで行き交う船を看ん」と曰のたまったのでその通りにしたところ、無事に船が進み帰還したという。大津渟名倉長狭の場所については住吉大社がある大阪の住吉という解釈が一般的だが、神功皇后が神託に従い創建した広田神社(西宮市)、生田神社(中央区)、長田神社(長田区)との距離関係から考えると神戸の住吉の方が妥当と思える。また、住吉大社は標高が5~6mしかなく、「行き交う船」を眺めるには20m以上ある本住吉神社の方が好都合だ。さらに長狭とは海に突き出た半島状の地形ということになるが、かつては住吉川が運んだ土砂が堆積して大阪湾に出っ張っていたことが想像される。これらのことから大津渟名倉長狭は、大阪の住吉よりも神戸の住吉の方が合点がゆくのではないだろうか?住吉大社は本住吉神社から遷座したともいわれているし、『古事記伝』を記した本居宣長は神戸の住吉説を支持している。いずれにせよ神話に登場するくらいなので、この地の歴史は悠遠だ。旧石器時代から人々が暮らしを営んでいたようで、住吉の山の方では石の鏃やじり、海の方からは土製の漁具が発見されている。弥生時代にここで人々が生活していたことは、荒神山遺跡や住吉宮町遺跡の調査により明らかだ。古墳も数多く、前方後円墳の東処おとめ女塚古墳より銅鏡が出ていることから、住吉一帯はこの頃、大和朝廷によって支配されていたとみていい。また、出土品の朝鮮式の土器や馬の埴輪などから、住吉には騎馬を持つすぐれた軍事力、あるいは馬を使った高度な農耕など、高い技術を持った渡来人も存在していたことが推察され、そのことが本住吉神社の由緒にある神功皇后三韓征伐の逸話が事実と遠くないことを示唆しているようだ。吉田家がこの地に定着し、住吉村へと飛鳥時代や奈良時代の水田の痕跡も発掘調査で確認され、隣接する御影町郡家に莵うはら原郡の役所が存在したと比定されていることからも、古代の住吉は莵原の中心地のおだやかな農村であったと推し量ることができるが、律令時代に整備された山陽道も通っていたので、都との結びつきも深かったのだろう。環境、文化、文教、コミュニティ…得難いレガシーを受け継ぐ住吉特集44

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