ろが大体カギになった、先には六角の二寸くらいな頑丈な鋒ほうのついたステッキをついた、頭にはこの頃の登山帽のようなキレの帽子をいただいた猊げいか下が、毎日午後、ほとんど時計のように誰かお伴をつれて学校をまわって歩かれたのである」》身長約182センチ、体重約80キロ。光瑞は当時の日本人の平均を上回る堂々たる体躯を誇っていた。教え子たちが〝象のような巨人〟と仰ぎ見る光瑞が、夢と莫大な資材を投じて築き上げたのが「二楽荘」だった。光瑞の執念が注ぎこまれた大邸宅は、建築家たちから「本邦無二の珍建築物」と評され、数年後には閉鎖され、1932年に焼失した。現在、跡地の一部に甲南大学理学部が建つ。光瑞に通じる建学精神を持つ甲南大創設者、平生釟三郎へ…。六甲の麓に〝二楽荘の片鱗〟が受け継がれたことは興味深い。今、その〝異形〟を見ることはできない。=続く。 (戸津井康之)《荘内にはインド室、アラビア室、エジプト室など各国の特色を凝らした部屋があり、珍奇な美術工芸品が飾られている。応接室の調度も豪華をきわめている。中国古碑の拓本、大蛇の首の剥はくせい製の電気スタンド笠かさ。銀製の食器類…》学生を養成する私塾(武庫中学校、後の武庫仏教中学)と図書館兼宿舎や「私立六甲測候所」と命名した私設の測候所まで備えられ、高価な英国製の精巧な器械が設置された。広大な敷地に建つ各施設を移動するために、3本のケーブルカーまで建設された。また、植物に造詣の深かった光瑞は、世界各地から植物を二楽荘へ集めた。《一時二楽荘園芸部には高山植物のみでも何百種とあり、各国の石楠花でも三百余種もあった…》という説明から、光瑞が「園芸部」を設け熱心に植物収集していたこと、また、その徹底した収集癖も伺い知ることができる。《神戸と大阪の中間にある六甲山腹、海抜約百メートルの突端にある学校からは、大阪湾、紀淡海峡が一望できる。背後には海抜千メートルの六甲山が屏びょうぶ風のようにつらなっている。海岸一帯は白砂青松の別荘地であった。「たいていの人がこの住吉のあたりを通ると二楽荘を見あげたものであった。紅のスレートでたたんだ二層楼の異様な洋館。そして西面の角にはドームをいただき、避雷針をかねたスパイヤーが天空を射ていたインドのマハラジャーの王宮に似た景観であったと、山本はいう》武庫中学で学んだ山本晃紹氏の言葉だ。光瑞は〝何ものにも拘束されない、自由な天下無敵の学校を作るのが夢〟で私塾を作る。校内を歩く光瑞の姿を、教え子の山本は、こう述懐している。《「私たちの眼から見れば象のように大きな巨人が象の皮のブラウン色の靴――ブーツとシューと二そろいあったのだが――をはいて、アッシュの握るとこ131
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