KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年1月号
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インド探検で見た世界明治から大正、昭和に至る日本の変革期を生きた浄土真宗本願寺派第22世宗主、大谷光瑞(1876~1948年)は世界的な冒険家としての顔も持っていた。その肩書は多岐に渡り宗教家であり探検家であり伯爵。多趣味で国営競馬馬主の肩書も持ち、従来の宗教家のイメージを覆す異彩を放つ存在だった。この個性豊か、かつ規格外の宗教家、光瑞が1909年、六甲山の麓に、世をあっと驚かせる豪華絢爛な大邸宅の別荘を構えた。その名は「二楽荘」と命名された…。1876年、光瑞は浄土真宗本願寺派第21世法主の父、大谷光尊(明如上人)の長男として京都で生まれる。上京し学習院大学などに通うが、退学し京都へ帰郷。1900年、日本を離れ、英国留学中の1902年、西域を調査する探検隊を結成し、インドへ向かう。仏教について考古学調査を行っていた1908年、光瑞は、須磨月見山別邸が皇室に買い上げられて武庫離宮となったため、新たな別荘地の候補地を神戸で探していた。作家、津本陽の小説『大谷光こうずい瑞の生涯』(角川文庫)のなかに、こう記述されている。《「俺は今度こしらえる別荘を、家内休養の場とするのみでなく、門末からえらんだ人材を教育するためにも使いたいのや」光瑞は候補地を兵庫県武庫郡本山村岡本の天王台にきめた。現在の神戸市東ひがしなだ灘区岡本で、甲南大学北側の丘陵である》なぜ「二楽荘」と名付けたのか?その理由はこうだ。《光瑞は六甲山の山やますそ裾にあたるこの地に、海と山を楽しむという意味を込め、二楽荘と命名した別荘を建てることにした》のだった。すべてが規格外続く記述から、その広大さが想像できる。《頂上の平へいたん坦地は二千坪であるが、敷地総面積は八十二町歩(二十四万六千坪)で、周囲をひとまわりするのに三日かかるといわれた》広さだけでなく建築物も規格外だった。《「いままでの日本建築は、こしらえても何の新味もない。また西洋建築をまねたところで、これもつまらん。伝統をふまえつつ、あたらしい未来をのぞむにふさわしい建物をこしらえるのや」》こうして、洋風建築とインド風建築が合わさった〝摩訶不思議な建築物〟が建てられる。神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~前編大谷光瑞僧侶と探検家の両立…規格外の宗教家が六甲に築いた〝夢の城〟130

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