KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年12月号
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家計を支えた小説推理小説雑誌『宝石』の懸賞小説に送った応募作「達磨峠の事件」が入選し、山田風太郎は1946年、作家としてデビューを果たす。東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に在学する現役の大学生で、24歳だった。このデビュー当時の様子について、『別冊太陽 山田風太郎』(平凡社)のなかで、評論家の新保博久氏が「乱歩・風太郎 交歓魔界図巻」というタイトルで、こう綴っている。《審査員のひとり江戸川乱歩の知遇を得、医学校で学業のかたわら探偵小説の創作に勤しむ。そのころはまだ医業を継ぐ気だったわけだが、どんどん小説の注文が増え、卒業するころにはあっぱれ専業作家になっていた》医大に進みながらも、山田は医師ではなく小説家として生きていくことを選んだ。その一番の理由を、風太郎は「14歳での母の死だった」と打ち明けている。『山田風太郎全仕事』(角川文庫)に収録されたインタビューのなかにこうある。母を亡くしたあと。彼は、《その悲哀はどこへも持っていきようがないんですよ》と語り、《だから一種の酸欠状態になってくる、精神的な。それをごまかすために、スポーツは苦手だし、あの時代、映画も見られない、そういう状態だから本を読むよりほかにはないわけですよ。で、読むより自分で作ったほうが、いっそう現実逃避の目的にかないますからね》と、小説を書くことに没頭していった理由を語っている。また、中学のころに両親を失い、経済的に困窮し、追い込まれていたことも、小説家を目指す原動力となったようだ。《ぼくが親戚に育てられているころは、戦後のインフレが激しくて、仕送りの金が足りなくて、特に田舎が激しくないもんだから、言いづらい。それなら小説書けば原稿料をくれるではないかというので書いた。あのころは懸賞小説と言っても、50枚書いて千円くれましたからね》父母を失った風太郎は、戦後の貧しい時代をしたたかに生き抜くためにも、プロの作家として小説を書き続ける必要に迫られていたのだ。故郷の継承者たち「山田風太郎賞」の選考委員を務めた神戸出身の作家、筒井康隆氏をはじめ、文化・芸術を生業とする人たちに風太郎ファンは多い。本誌で連載中の美術家、横尾忠則氏もその一人である。『別冊太陽 山田風太郎』のなかに、「挿絵への興味が生んだ神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~後編山田風太郎築きあげた郷土の文化人脈…受け継がれる創作魂118

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