KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年12月号
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有馬温泉歴史人物帖もって安芸や備後でブイブイいわせます。ちなみに荒汐部屋三兄弟の四股名、若輝元、若元春、若隆景もこの毛利三兄弟に由来するそうですが、「ワカタカカゲ」って言いにくいよねー。 で、毛利ってもともと秀吉と対立、備中高松城の水攻めで睨み合っておりました。そこに本能寺の変!秀吉はこれを隠して和議、中国大返しで天王山となる訳で。一方の毛利側では停戦翌日に信長の死を知り「ダマされた…追っかけろ!」と沸きますが、それを隆景が押しとどめたとか。実際のところ毛利軍に追撃する余裕がなかったようですが、いずれにせよ秀吉はこのことで隆景に一目置くようになったと伝わります。 そのうち賤ヶ岳で地位を盤石にした秀吉に毛利が恭順。隆景は秀吉に重用され大いに働きます。その労をねぎらおうとしたのでしょうか、1588年に隆景、隆元、広家がトリオで大坂を訪 前回は白樺派の歌人、木下利玄の家系を遡ると豊臣秀吉の正妻、ねねの兄である木下家定にたどり着くとご案内いたしました。ご存知の通り秀吉とねねの間には子がございません。そこで養子=後継ぎとして白羽の矢が立ったのが家定の五男、金吾くん。でもそのうち秀頼が誕生。もはやプリンスじゃなくなった金吾くんの運命はいかに? そこに「うちにぜひ!」と手を挙げたのが小早川隆景。これは黒田官兵衛が仕掛けたという説もありますが、小早川氏にとっては官位の高い金吾くんを養子に迎えることで家格を押し上げ、秀吉にとっても平和裏に後継者問題を解決でき、まさにウィンウィンでした、その時は…。 隆景は毛利元就の三男坊、毛利隆元と吉きっかわ川元春の弟でいわゆる「三本の矢」の一本。元就より先に没した隆元の嫡子の輝元を、元春やその倅せがれの広家とともに支え、いわゆる「毛利両川」でねたところ、隆景だけが秀吉に招かれ有馬温泉へ。なんと秀吉の弟の秀長がご案内。滞在中も秀吉から見舞いの書状が3通ほど届く気づかいぶりでした。そして1590年、隆景は秀吉が有馬で開催した茶会の一番客として千利休とともに臨席しています。秀吉は多くの武将を有馬へご招待しましたが、二度というのは隆景オンリーで、しかも手厚いおもてなし。いかに信頼されていたかわかります。 それゆえ秀吉は金吾くんを隆景に託したのでしょう。けどその後小早川の家督を継いだ金吾くんは隆景亡き後、関ヶ原で徳川側勝利の決定打を放ち豊臣滅亡への扉を開くことに。そう、金吾くんとは小早川秀秋!彼のオヤジと元オヤジ=隆景と秀吉は、あの世でこの因果に何を思ったのでしょうね。~其の参拾参~小こばやかわ早川 隆たかかげ景 1553~1597107

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