函館の駅弁と神戸の洋食いまは新千歳空港にその役割を譲ったが、かつて函館駅は北海道のゲートウェイとして大いに賑わった。青函連絡船に揺られやって来た北に向かう人の群れを迎える駅の構内に飲食事業は不可欠で、食堂は混雑、駅弁も大いに売れた。現在、函館駅には連絡船も新幹線もやって来ない。しかし駅弁は健在で、中でも甘辛く炊いた鰊と食べ応えのある数の子がのっかった「鰊みがき弁当」は名物として依然人気が高い。それが買える函館駅の駅弁売り場は「駅弁の函館みかど」と称している。平成24年(2012)までは昭和11年(1936)創設のみかど函館支店が経営、平成24年(2012)からJR北海道フレッシュキヨスクが事業を継承し営業しているが、長年愛され続けてきた「みかど」のブランドを残しているのは旅人の視点からも嬉しい配慮だ。実はこの「みかど」のルーツをたどると、神戸の洋食に結びつく。信州に生まれ佐久間象山に学んだ後藤勝造は、開港間もない神戸に出て明治10年(1877)に蒸気船問屋を創業(現在の後藤回漕店のルーツ)。着実に業績をのばして明治20年代になると規模が拡大するが、当時は大きな回漕業者には乗客に宿舎や供食施設も提供する必要があったようで、明治22年(1889)に宇治川筋にレストラン兼旅館を開業。そこにたまたま、後に大臣を歴任する後藤新平が宿泊して勝造と親しくなる。そして台湾総督の補佐を務める新平の助力で台湾に進出し、事業がさらに発展した。明治32年(1899)に日本初の食堂車が神戸から現在の防府を結ぶ山陽鉄道で運行を開始すると、勝造はその運営に乗り出し洋食を提供したが、ここにも新平のバックアップがあったと思われる。さらに新平の助言で神戸駅構内に洋食レストランをオープン。これが大いに当たった。その後新平のアイデアで屋号を「自由亭」から「みかど」に改めた。明治41年(1908)に新平が初代鉄道省総裁に就任すると、「みかど」は全国の食堂車経営を委託されるとともに、各地で駅構内の食堂も展開。札幌、函館、東京、名古屋、門司港、博多、さらに台北、台南、高雄にまで「みかど」の看板が掲げられた。そして函館では駅弁も手がけたという訳だ。神戸駅構内の「みかど」は平成15年(2003)に歴史の幕を下ろし、事業自体もその約10年後に廃業した。しかし、神戸の洋食の食堂車やレストランをひとつのルーツとして旅と食の楽しみを全国に波及させたという点で、勝造と「みかど」は大きな役割を果たしたのではないだろうか。家庭の洋食の立役者は神戸から洋食は、何も外食だけのものではない。家庭の食卓もまた、洋食が煌めく舞台だ。特にコロッケやカツなど揚げ物の洋食メニューが家庭に定着するようになったのはいわゆるソース、ウスターソースやとんかつソースの存在が大きかったと思われるが、そ29
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