KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年11月号
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大江千里 proleは、お弁当の子から僕とのことを相談されてるうちに、今度は僕と付き合うことになってしまったのだ。お弁当の子と別れた理由は、おそらく僕が優柔不断でフェードアウトを試みたのだと思う。そして箴言の子とも結局はすぐに別れた。フェードアウトで。神戸、西宮、門戸厄神、甲東園、ここら辺の地名を聞くと、あのまだこの前まで女子高生だった2人を思い出す。シビアに「人の傷を忘れるな」と言った子のアパートのキッチン、畳の部屋から見えたぼんやりとした朝靄、登場人物が秒単位ですれ違うさま、まるで人生がヌードになったような瞬間が蘇る。デビューし、ヒットを飛ばし、やがてアメリカを目指す。ジャズという学生の頃大好きだった音楽へ先祖返りして、LAのジャズクラブでコンサートをやった。すると楽屋に懐かしい顔がいた。「元気そうやね」。僕にお弁当を作ってくれた関学・文学部のあの子だ。え?「そう、こっちの日系企業の企画を任されて、アメリカに住んでもう20年以上やねん」。ご縁が戻り、日本でも何度か会った。中目黒の桜を一緒に見たり、お互いの人生の出来事を報告しあったり。彼女は1回結婚して、英語も上手で、僕よりうんと逞しく生きている。そして、あの頃と全く変わらぬ溌剌とした若さをキープしてた。その縁もコロナで薄れる。便りのないのは元気な証拠、箴言の彼女も元気でいてほしい、そう思うけれど、彼女とは縁が途切れたままだ。箴言の子は、ジェイ・ガイルズ・バンドの大ファンで、カセット2つ僕にダビングしてくれた。アメリカのダイナーで、当時ヒットしてた『センターフォールド』を耳にすると当時を思い出す。 “ かつてクラスの天使だった憧れの女性が、大人になりヌード雑誌の見開きページに登場するのを見た時の衝撃と喜び”を歌った曲だ。曲が終わってまた始まるという“リプライズ”を知ったのもあの曲だった。箴言の子はエンデイングの口笛をよく僕の前で吹いていた。岡田山のアパートまで、2人で登る坂道を手を繋ぎながら。大江 千里1960年生まれ。1983年にシンガーソングライターとしてデビュー。2008年、ジャズピアニストを目指し渡米、THE NEW SCHOOL FOR JAZZ AND CONTEMPORARY MUSICに入学。2012年、自身のレーベル「PND Records」を設立しデビュー。現在、アメリカ、南米、ヨーロッパでライブを行なっている。NYブルックリン在住。 27

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