参加するのなら、それなりの条件を与えてもらってもいいはずですが、僕の役割はさほど重視されていません。舞台美術に僕の名前を見つけて足を運んだ観客が、僕の作品の貧弱さに不満を抱くであろうことは、火を見るより明らかです。しかも選択された僕の作品は、吟味して選択されたものとは思えず、たまたま手近にあった作品を選んでいるに過ぎない、実にずさんな演出というか、プロデュースです。このような事態が進行の途上で明らかになってきたので、舞台美術の演出家と会いたいと言ったら、その時点で、そのような存在の人がいないことがわかりました。映像の演出に、振付や照明を重視する舞台監督や、それに伴う音楽では指揮者や室内合奏団、バレリーナ、ピアノ、ヴァイオリン等の出演者に対する演出はそれなりに理解されているものの、僕の担当に関する舞台美術は、全くというほど、その演出には関心がもたれていないと感じたのです。舞台中央にスクリーンを設置して、そこに僕の作品を4、5点投影するという発想からの案だということがわかりましたが、まぁ、付け足しのようなものです。本公演のチラシには、フィリップ・グラスと三島由紀夫、それに僕。3人の写真が掲載され、如何にも物々しい。3人のメインのひとりとして編集部から与えられたテーマは、11月に東京オペラシティコンサートホールで開催される、三島由紀夫生誕100周年記念の「フィリップ・グラス『MISHIMA』―オーケストラとバレエの饗宴―」です。僕が舞台美術で参加しているために、何か新しいことが生まれるのではと期待されて、参加者の弁としてエッセイを頼まれました。ところが、この舞台芸術の進行の過程で、僕の役割が実に不明確であることが判明しました。はっきり言うと、舞台芸術に関しては演出家不在で進行していました。バレエ中心の舞台で進行しているためTadanori Yokoo美術家横尾 忠則撮影:横浪 修神戸で始まって 神戸で終る 最近、僕の身に起こったことと日本の舞台美術への提案16
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