まず、作家となることを決意する。医大の卒業式でのこんな興味深いエピソードが『別冊太陽 山田風太郎』(平凡社)のなかで明かされている。《「今回の卒業生のなかには異色のものがいる。将来が非常にたのしみである」》卒業生の一人、山田風太郎の人生に期待を込め、こうあいさつしたのは同医大の緒方知三郎学長。緒方洪庵の孫である。風太郎は、医学生時代から小説を書き、江戸川乱歩が編集長を務めていた雑誌『宝石』の短編懸賞に応募していた。彼を作家の道へと導いたのは、〝日本ミステリー界の牽引者〟だった。『宝石』への応募作『達磨峠の事件』で風太郎は現役の医大生として作家デビューを果たすのだが、彼の才能をいち早く見抜いていたのは『宝石』の編集長、江戸川乱歩その人で、医大生の彼に小説を書き続けることを強く勧めたのも、また、乱歩だった。=続く。 (戸津井康之)その由来が面白い。中学時代の友人4と互いに呼び合っていたあだ名が、それぞれ、「雨」、「霧」、「雷」。彼につけられたのが「風」だった。これが、そのまま受験雑誌『受験旬報』(後の『蛍雪時代』)へ懸賞小説を投稿する際の彼のペンネームとなる。興味深いのは、最初は「かぜたろう」という呼び名だったが、やがて、「ふうたろう」と呼ばれ、それが定着したのだという。江戸川乱歩との邂逅1922年、彼は関宮村の代々続く医師の家系に生まれた。だが、幼いころから、彼の前途は多難だった。「山田医院」を経営する父は、彼が5歳のときに死去。1935年、但馬地方で最も歴史ある名門、兵庫県立豊岡中学校(現在の県立豊岡高校)へ進学するが、その翌年、母が病気で早世する。中学2年への進級を控えた春休みの最中。彼は14歳にして両親を失ってしまうのだ。《この年齢で母がいなくなることは、魂の酸欠状態をもたらす。その打撃から脱するのに、私は十年を要した》『風眼抄』(角川文庫)のなかの短編「わが家は幻の中」で、彼は最愛の母を失った絶望の思いを素直に吐露し、こう綴っている。 母を失い、自暴自棄となった彼は家出同然で故郷・但馬を出て単身上京。軍需工場で働きながら、1942年、東京医学専門学校(現在の東京医科大学)へ進学する。しかし、第二次世界大戦に巻き込まれ、彼が暮らしていた東京・五反田一帯は空襲に見舞われ、家を焼け出されてしまう。知人を頼って一旦、山形県へと疎開する。すると彼が通う医大が「疎開先の病院で軍医を育てよう」と決め、彼は長野県・飯田の病院へと疎開。地元の旅館が学生たちの寮となり、彼はここで過ごすことになる。1950年、何とか東京医科大学を無事に卒業するのだが、「自分は医師には向いていない」と彼は判断し、医師の道へは進119
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