KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年10月号
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有馬温泉歴史人物帖入浴してないじゃん!これを書いたのは土佐藩士、吉田東洋でございます。彼は坂本龍馬とともに大政奉還に尽力した後藤象二郎の育ての親にして、三菱の岩崎弥太郎や自由は死せずの板垣退助を導いた人物ですが、最大の功績は藩主、山内容堂のブレーンとして藩政改革を断行し土佐藩を雄藩に押し上げたことでしょう。その知見と先見性は傑出し、徳川慶喜を補佐し幕末の政局の軸にあった四賢侯の一角でもある容堂が「どうよ?」と何かと相談して「You Do!」としばしば実務も命じていたとか。でも、有馬に行っていないのになぜ『有馬入浴日記』なの?それは、この旅のタテマエが有馬での湯治だったから。奉行職にあった東洋は病を理由にその役職を辞し、36歳の時に有馬温泉で療養するためと申し出て35日間の休暇を得ます。隣国に道後温泉があるのにこれが認められたの有馬に関する紀行文は古今東西数あまたですが、中にはヘンテコなものもございます。その一つが、とある人物が綴った『有馬入浴日記』。紐解いてこちらの旅程をご紹介すると…1852年2月25日高知を出しゅったつ立、山を越え丸亀から船で二見へ、須磨の敦盛墓と湊川の楠公墓に手を合わせ、大坂にしばし滞在し書物を買い漁り、奈良へ出て大仏を拝んでから伊賀を越え、津で齋藤拙せつどう堂に面会。アヘン戦争の経緯など海外事情に通じていた拙堂からさまざまな学びを得たようです。その後東海道で京都に入り、本連載其の弐拾でご案内の頼山陽の三男にして安政の大獄で斬首された頼三樹三郎やその師の梁川星巌ら尊皇派と交遊。さらに大坂へ戻って吉田松陰や桂小五郎ら勤王の志士と昵じっこん懇の広瀬旭荘と親睦を深め、兵庫や加古川を経て室津より船で丸亀に渡って4月1日に高知帰着…って、ん?有馬では、有馬が効能にすぐれた特別な温泉地という認識が当時の土佐の人たちにもあったからなのでしょう。名医に診てもらうため京や大坂にも立ち寄るという方便も、地理的に不自然ではございません。かくして東洋はいざ有馬温泉へ!ということにして上方へ出て賢人たちと交わった訳ですが、その後知遇を得た容堂にこの旅で得た見聞を糧とした数々の示唆を与え、象二郎にもその識見や思想は受け継がれて、彼らの活躍で江戸幕府の終焉や明治維新へと時代が大きく変化したのでございます。もし関西に有馬という名湯がなかったら、東洋が視野を広げる機会は失われ、容堂や象二郎を動かすこともなかったかもしれません。つまり、有馬温泉なくして日本の夜明けはなかったぜよ!かもね。~其の参拾壱~吉よし田だ 東とう洋よう 1816~186247

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