KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年10月号
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の。しかしながら鎌倉時代の鍛造や組み継ぎの高い技術をいまに伝え、内面に金を施した荘厳なこの経箱は、技術的にも文化的にも重要なレガシーであることは間違いない。「銅製経箱(2合)」はやや時代が下った南北朝時代以降のものとみられ、少し丸みをおびたフォルム、蓮華唐草や蓮の花弁の装飾など、歴史的な値打ちはもちろん、美術品としても魅力がある。その価値を理解して京都のオークションで落札し、再び有馬の宝とした有馬温泉観光協会は賞賛に値するだろう。これらの経箱は現在、神戸市立博物館で大切に保管されている。ちなみに15世紀後半の温泉寺では、湯治客が百銭を支払うと僧が尊恵と閻魔の話をするというエンタメがあったが、この時にプレゼンボードとして使われたと思われる絵縁起「温泉寺縁起」が京都国立博物館に所蔵されている。有馬温泉の鎮守、湯とうせん泉神社に伝わる神宝「絹本著色熊野曼荼羅図」は、熊野三山にゆかりのある神々とその本地仏だけが描かれているところが特徴で、まさに神仏習合の熊野信仰の世界観を体現した曼荼羅と言えるだろう。仁西は夢枕に現れた熊野権現のお告げで有馬に向かい、その復興を成し遂げたと伝えられている。吉野は都から熊野へのゲートウェイにあたり、高原は修験道の聖地、大峰山の麓に位置する。一説によれば仁西も修験者で、熊野に篤い信仰を抱いていたようだ。仁西による復興の後、有馬で熊野信仰が盛んになっていった。温泉神社は神代の昔に有馬の湯を発見した大おおなむちのみこと己貴命と少すくなびこなのみこと彦名命だけでなく、熊くまのくすみのみこと野久須美命も祭神としているが、これは仁西以降のことで絹本著色熊野曼荼羅図(国指定重要文化財)❷ 鎌倉時代の信仰と有馬    ~先人の願いが宿る平安末期に大規模な山崩れで泉源が埋まってしまった有馬の地。長らく閉ざされた湯の街に再び火を灯したのは、1191年に吉野の高たかはら原からやって来た僧、仁にんさい西だ。彼の尽力により有馬は再び賑わいを取り戻し、疾病からの平癒を願う人たちが霊泉を求めてやって来るようになった。そんな湯治客の信仰の残り香が、文化財に昇華して現代に受け継がれている。37

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