KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年10月号
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ろす淡路島の丘陵に嘉兵衛を顕彰する「ウェルネスパーク五色 高田屋嘉兵衛公園」が造られた。その公園の一角に、阿久の死去後、2010年、記念碑「愛と希望の鐘」が建てられている。生涯5000曲以上の歌詞を作った阿久は、都はるみのヒット曲「北の宿から」や森進一の「北の蛍」、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」など、なぜか〝極寒の北〟をテーマに選んだ詞が多い。1985年に大鳴門橋、1998年に明石海峡大橋が架かるまで、淡路島は海に閉ざされていた。島を飛び出し、北海を目指した嘉兵衛と、上京して作詞家となった阿久。生きた時代もやり遂げた仕事の分野も違えど、二人が〝島の外の世界〟で目指した〝夢の根源〟はどこか似てはいないか…。未だ世界で戦争が絶えないが、国家間の危機を回避した嘉兵衛の勇気と知恵は、時代を超越し、現代人が見習うべき、また、目指すべき指針の一つといえるだろう。=終わり。次回は作家、山田風太郎。  (戸津井康之)友となっていた。《リコルドは嘉兵衛の手を握り、「あなたは商人だが、ヨーロッパの騎士道を身に付けておられる。実に立派な日本人だ」と、強く振った》今から200年以上も前。嘉兵衛は司馬の言葉で言う〝町人身分〟ながら、日本を代表し、大国・ロシアと互角に外交を繰り広げた。だが、この難交渉は嘉兵衛の心身を蝕んでいた。同書ではその疲弊した姿をこう綴る。《ゴローニン少佐たちを釈放させることに、自分の全精力を注いでしまったこともあった。力を使い果たしてしまったのである》と。嘉兵衛はその後の生き方をこう悟る。 《「もう、こういう健康状態では、とても荒海を乗り越えて、北方貿易に従事することはできない」思い切りのいい嘉兵衛は、そう考えた。そこで、弟の金兵衛に、「お前が函館に残って、俺の代わりを務めてくれ。店は全部お前に任せる」と告げた》嘉兵衛は全事業を弟に託すのだ。《「兄さんは一体どうするつもりですか?」と聞いた。嘉兵衛は笑った。「淡路島へ帰る」》体力の限界を感じた彼は北海道を去る。《こうして、高田屋嘉兵衛は惜しげもなく北方に設けた莫大な財産を弟に譲って、生まれ故郷の淡路島に帰っていった。そして、文政十年(一八二七)に五十九歳で死んだ》人生の最期を嘉兵衛は淡路島で過ごす。彼は最後の力をふり絞って故郷へ恩返しする。《死ぬまでの間、島のために、今で言えば、「企業利益の地域への還元」を次々と行った。淡路島のために、いろいろな施設を作り、また寄付をして、島民の生活が向上することを願ったのである》嘉兵衛は故郷の都志港や塩屋港の整備費用にと、これまで築き上げた私財を投じた。この連載で取り上げた作詞家、作家の阿久悠も嘉兵衛と同じ淡路島の西海岸にある五色町の出身。都志小学校の卒業生である。1995年、播磨灘を見下131

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