KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年10月号
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屈強な交渉人兵庫津(現在の神戸市兵庫区)を出て北海道・函館に高田屋の本拠地を興した淡路島出身の〝海商〟高田屋嘉兵衛。未開の択捉―国後航路や北海の漁場の開拓に尽力するが、日露の歴史を揺るがす大事件に巻きまれる。1811年に起きたゴローニン事件である。事件はこうして起きた。択捉島を調査するため上陸したロシア船「リディア号」船長のゴローニン少佐が、日本の警護隊に拿捕されたことに対抗し、副長のリコルドは、船で通りかかった日本船の船長、嘉兵衛を拿捕する。ロシアはゴローニンの身柄返還を要求。この交渉を行ったのが、嘉兵衛だった。《嘉兵衛が町人身分ながら周旋した函館における日露交渉は、日本とロシアにおける国家間の交渉の最初のものであった》作家、司馬遼太郎は、小説「菜の花の沖」(文春文庫)のなかで、こう記している。ロシアの捕虜となった嘉兵衛だったが、彼はリコルドと信頼関係を築きながら粘り強く交渉を重ねていく。そして日本と敵対関係にあったロシアとの間に友好関係を結ぶのだ。《リコルドが日本側にわたした二通の公文書(一通はオホーツク長官ミニッツキーのもの。他はイルクーツクの長官ニコライ・イワノヴィッチ・トレスキンのもの)のうち、前者にあっては、釈明の趣旨をのべたあと、通商をも希望していた。さらに今回のような紛争がおこるのも国境が未確定だからだ、として、国境劃かくてい定の件をもちかけていた》 嘉兵衛は日露交渉における初の交渉人となり、日露関係の足がかりを作る。これがその後、北方四島が日本固有の領土として認められることに大きく起因しているのだ。故郷に尽くすリコルドが、いかに嘉兵衛の人格に惹かれ、信頼を寄せていたかを、作家、童門冬二は「高田屋嘉兵衛 物語と史蹟をたずねて」(成美堂出版)のなかでこう綴っている。《日本とロシアの関係も、この頃は、本当に「武士道」と「騎士道」とが、和やかに交流していたのである。この時、リコルドは嘉兵衛にこう言った。「今後、あらゆる海域で、山高印の旗をかかげる船に出合ったら、ロシア船は赤い旗をかかげて、応答します。それは、山高印の船は、ロシア側では絶対に襲わないという合図です」と言った。嘉兵衛は感謝した》国難の交渉を通じ二人は親神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~後編高田屋嘉兵衛恩返しは故郷のために…今も大志は淡路に眠る130

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