KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年9月号
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らく気になったりしています。この俳優はセリフにばかり気をとられて、足の指先が遊んでいて、そこへの演技の技術を見失っているとか、自分の演技にばかり関心が向いていて、相手の演技者との関係にちっとも気が入っていないとか、まるで小舅のように、どうでもいいところに目がいってしまうのです。俳優の全身が、その俳優の心というか魂が肉体と一致しているかどうかという、恐らく一般的な歌舞伎ファンとは別の箇所にばかり神経がいってしまっているのです。それと同時に、舞台の音響が、俳優の演技とズレていないか。そうした音響効果や、照ターの打ち合わせをしたり、そのほかにも、過去には個人的に歌舞伎俳優との交流もあったり、現在もあることはあります。僕は歌舞伎俳優でもないのに、歌舞伎俳優の細かい話を聞いたりするのが好きです。勿論、演出にも興味があるので、まるで自分が演出家であるかのような立場に立って、実に細かいことまで問いただしたりします。歌舞伎の面白いところは、まず物語なんでしょうが、僕は、そんな物語なんかはどうでもよくて、普通、観賞者が気づかないような箇所、小道具であったり、小さい表情であったり、手や足の位置がえ歌舞伎について書けと言われて、はたと困っています。歌舞伎は何度か見ていたりするけれど、ほとんど出し物の記憶がない。歌舞伎ファンというのは、役者のプライバシーにも興味があって、まるで親戚のことを語るような、実にマニアックな伝統芸能。伝統芸能への関心というより役者へのマニアックな関心に興味の大半が奪われているように思うが、そうした歌舞伎マニアックに言わせれば、それが歌舞伎ファンなんだということになるのかもしれない。僕は、歌舞伎のポスターなども結構、何枚も描いており、その都度、歌舞伎俳優とはポスTadanori Yokoo美術家横尾 忠則撮影:横浪 修神戸で始まって 神戸で終る 演出、音響、舞台美術…いくつもの視点で観る歌舞伎の面白さ20

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