北方領土のパイオニア第二次世界大戦後から現在まで、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方領土(北方4島)をめぐり、日本とロシアの間では領有権が争われているが、江戸時代後期に、国後島―択捉島の航路を開拓した一人の日本人の〝船乗り〟がいる。兵庫県・淡路島出身の高田屋嘉兵衛(1769~1827年)である。北方領土の航路を開拓した嘉兵衛の功績は歴史的に見ても偉業だ。嘉兵衛の死後、1855年、日露和親条約で北方4島は日本の領土と定められるが、この日本固有の〝領土〟は彼がまさに〝パイオニア〟となって、北海の未知の漁場や潮流の調査を行い、開拓していった地道な活動に負うところが大きいのだ。淡路島で生まれた嘉兵衛は、兵庫津(神戸市兵庫区)で船乗りとしての知識と技術を積み、廻船商人となって瀬戸内から大海へと漕ぎ出した。そして〝北方の海〟を舞台に、ロシアとの外交を買って出た彼は一人で、この大国と対等に渡り合う。彼の人生は、日本人の世界進出が珍しくなくなった現代日本人の常識から考えてみても、遥かに〝規格外〟の生きざまだったことが分かる。その破天荒で波乱万丈の人生はダイナミックで、ドラマチックだ。今から200年以上も前に嘉兵衛が挑み、成し遂げた偉業と比べて見ると、国際化を遂げた現代日本人の夢や発想力、想像力の方が、常識にとらわれ過ぎ、貧困になってはいまいか?嘉兵衛の人生を辿ってみると、改めてそう考えざるを得ない。〝血沸き肉躍る〟嘉兵衛の生涯を、作家、司馬遼太郎が長編小説として書き残している。タイトルは「菜の花の沖」(文春文庫)。壮大な物語はこう始まる。このはなしの主人公は、都つし志 の浦でうまれた。浦は、淡路島の西海岸にある》嘉兵衛は1769年、現在の兵庫県洲本市五色町都志の農家で、6人兄弟の長男として生まれた。《淡路ではどの農家も、それまで以上に油あぶらな菜(なたねな)を植えるようになった。この島は山は丘という程度にひくく、地形による日当たりのさまたげがすくなかったから、どういう場所でもそれを植えることができた。このため、晩春になって、あぜ道をゆくひとびとが汗ばむころになると、全島が菜の花の快活な黄でうずまり、その花ごしに浦々の白帆が出入りした》司馬は、野に咲く菜の花やタ神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~前編高田屋嘉兵衛淡路島から未開の北海へ…規格外の国際人132
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