有馬温泉歴史人物帖やがて本能寺の変が勃発!講談「角屋船の由来」でご案内の通りこの時家康は堺にいましたが、実は宗及とのんびり茶の湯を愉しんでいたそうでございますよ。一説によればその頃の宗及の弟子の数は60人ほどで、利休のほぼ倍!その影響力もあってか、信長に続き秀吉も宗及を重用したのでございます。ご存知の通り秀吉は有馬大好きですが、前出の宗及の日記には1585年1月17日に「秀吉様有馬へ御湯治各御供いたし候」とあります。到着後、宗及は秀吉が19日昼に開催した茶席に出席。その後も25日に秀吉、石川数正、蜂屋頼隆を迎え志野茶碗でお点前を披露、その翌日にも長谷川秀一と加藤光泰を客として茶会を主催して武将をもてなします。また、30日には利休の会に茶人、山やまのうえ上宗二と列席したそうです。このような茶の湯文化が、毎年秋に開催されている有馬大茶会など、現在に繋前回ご紹介した田中邦衛さん、実は生家が岐阜の土岐にある美濃焼の窯元でございます。美濃焼と言えば、室町時代に志野宗信がつくらせた日本初の白い焼物、志野ですよね。その茶器は安土桃山時代に美濃焼の発展を支えますが、志野茶碗の文献上の初出は『津田宗及茶ちゃのゆ湯日記』で、宗及は1553年からの16年間で200回以上もヘビロテしていたとか。そんな宗及は千利休、今井宗久とともに茶の湯の天下三宗匠の一人にして、堺を代表する廻船問屋、天王寺屋の三代目でもございます。宗及が店の主になった頃の堺は貿易と鉄砲バブルを背景としたナウでイケイケな自由都市でしたが、そのうち信長の影響下になっちゃう。そこで宗及は信長に近づき、茶頭の一人として取り立てられ、天王寺屋も政商としてその地位を確固たるものにします。安倍政権下のP社みたいなもんですな。がっているのでしょうね。ところで、堺は妖怪が多いところだそうでございます。江戸中期に刊行された『沙さかい界怪談実記』には、天王寺屋の近所の逸話も含め50ほどの奇談が掲載されていますが、これを後世に伝えるべく2021年から「沙界妖怪芸術祭」が開催されています。今年は12月6日(土)・7日(日)ですが、これ、かなり面白いので、みなさまもぜひ!その会場、堺の中心に鎮座する開あぐち口神社は、神社なのに地元の人たちから「大寺さん」とよばれています。それは廃仏毀釈までここに念仏寺という寺院があったからですが、この「大寺」という呼称がはじめて出てきた書物は宗及の日記なんですね。そしてこのお寺の開祖は、有馬温泉三恩人の一人、行基なのでございます。~其の参拾~津つだ田宗そうぎゅう及 ?~1591沙界妖怪芸術祭イラストの肖像は想像です。123
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