KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年9月号
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今村 欣史書 ・ 六車明峰年齢を重ねて衰えるということは人間にとって必要なことなのかもしれない。耳が遠くなることは、年寄りが聞くと辛いことや悲しいこと、はっきりいって陰口を聞かずともよいということ。目が衰えることも、自分や連れ合いの衰えた容姿をまざまざとは見ずにすむということ。ところでわたし、小さな字で書かれた本が読めなくなってきて、このほど白内障の手術を受けた。するとやはり、見えすぎて困っている。先に書いたことが現実味を帯びてきたのだ。その負と引き換えにこれまで読めなかった本が読めるようになったのではあるが。白内障手術だが、簡単に思っていたが、術前の検査がいろいろあって、これに半日を要した。お陰様で手術に何の支障もないとわかって受けることになったが、手術室に行くのに車椅子で運ばれた。「独りで歩けます」と言ったのだが看護師さんは「両眼手術の患者さんは基本的に車椅子で移動していただきます」とおっしゃる。大勢の人の行き交う所を車椅子で運ばれるのがなんだか気恥ずかしかった。手術室では散髪屋さんの椅子のような手術台に仰向きに乗る。目は閉じないように器具で開かれたまま。点眼薬による麻酔が施されていて、痛くはなく不安もない。ただ、以前受けた心臓のカテーテル手術は静脈麻酔で眠らされていて、気づけば終わっていたのだが、今回は意識がはっきりしている。時間の感覚もある。かねて聞いていたように執刀医の姿もおぼろげながら見える。あくまでおぼろげだ。メスが見えるなどということはない。最近の治療法はどんどん進んでいるようだ。両眼手術の場合は、手術後、昔のように分厚い眼帯で覆われることはなく、水中メガネに似た防護眼鏡越しに見ることができるのだ。さてよく見えるようになって、これまで積ン読状態だった本を出して来て読んでいる。昨年秋、西宮神社の古本市で買っておいた山本周五郎の文庫本が五冊ある。そのうちの一冊。『扇野』(新潮文庫)。昭和五十六年発行。古い文庫本の文字は小さな虫が行儀よく並んでいるとしか見えない。なので、手術前は全く手が出なかった。これがすっきりと見えるようになったのだ。楽々と読める。多少嫌なものが目に入ることがあっても、本を読めるということがわたしにはありがたい。その『扇野』だが、短編小説が九話載っている。そ連載エッセイ/喫茶店の書斎から ◯  白内障手術112108

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