KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年8月号
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とき、こう語っていたおばあさんの笑顔が脳裏に浮かぶ。《淡路島にも飢えはあり、空襲はあり、いやというほど戦争の理不尽さを味わって来たつもりであったが、眼前にひろがる地獄図と比べると、夢のような天地だと思えた》神戸は地獄図だった…。そんな地獄から立ち上がる市民の姿を見ながら彼は育ち、作詞家、小説家となったのだ。決して屈することのない日本人の強さ、希望を、阿久は生涯、信じていた。今も歌い継がれる阿久作詞、阿久の盟友、森田公一作曲によるヒット曲「時代おくれ」(1986年)で、シンガー・ソングライターの河島英五は、力強くこう歌う。《♪ 人の心を見つめつづける 時代おくれの男になりたい》と。阿久の魂は、これからも日本人の心に希望の火を灯し続け、〝時代おくれの男〟として、歌や小説のなかで生き続けていく。=終わり。次回は高田屋嘉兵衛。  (戸津井康之)幼いころ、淡路島の港から神戸へ向かう船内で抱いた阿久少年の希望。それは、戦後の焼け野原から、復興を遂げた故郷・淡路島と神戸へ込めた願いであり、戦後、不死鳥のように復興を遂げていった故郷の姿を、震災後、再び〝傷ついた街〟に重ねたに違いない。阿久の心の奥底から湧き上がる希望への切なる願いを、彼は小説や歌のなかで何度も繰り返し、発してきたのだ。歌い継がれる魂小説「飢餓旅行」のなかで、戦後直後の神戸の様子が赤裸々に綴られている。淡路島から3時間の船旅で、ようやく神戸についた幸吉一家。だが、憧れの街である神戸の現実を目の当たりにした圭太は愕然とする。《神戸の街は、まさに廃墟であった》からだ。その描写は、さらにこう続く。《瓦がれき礫に埋もれていると云ってよかった》筆者は新聞記者時代、阪神・淡路大震災発生直後、神戸支局へ応援に駆けつけ取材した。阪急三宮の駅舎は無残に崩れ落ち、神戸市街一帯のビルは傾き、倒壊寸前になっている光景は、阿久が戦後に見た、まさに「瓦礫に埋もれた廃墟」そのものに思えた。避難場所となった小学校の校舎に毛布を敷いて避難していた高齢の女性を取材すると、意外にも穏やかな笑顔でこう答えた。「戦時中の神戸の街はもっとひどかったから。どうということはないですよ。だって今、私は生きている。命があるのですから。当時、空襲で多くの市民は亡くなってしまった…」深くしわが刻まれた笑顔を見ていて、取材中、涙が込み上げてきた。おばあさんは何度も何度もこんな大惨事を乗り越えてきたのだ。「こうして今、生きているじゃないか…」その後、東日本、熊本、能登…と日本各地を襲う大震災などの試練に被災者たちが立ち向かう姿を取材するとき。あの119

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