KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年6月号
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んです」と感慨深げに話す。〝世襲〟の覚悟「大正14年生まれの父が生きていたら今年100歳、大阪でラジオ放送が始まってから100年の年でもあります」若きころの米朝は、ラジオから流れてくる落語を聞いて噺家に憧れ上京し、作家で落語・寄席の研究家、正岡容に入門する。当時、ラジオから流れてくるのは、衰退していた上方落語ではなく江戸落語だったのだ。だが、東京で師匠の正岡からこう言われた。「伝統ある上方落語は今や消滅の危機にある。お前は大阪で上方落語を再興しろ」と。米朝は師匠から言われた通り、大阪へ戻ると四代目米團治に弟子入りを志願する。だが、米團治からは入門を考え直すよう、こう諭される。「上方落語に未来はない」と。ドラマでは、このセリフを米團治が語る。「四代目米團治は、父に落語では食べていけない、と言いたかったのでしょう。当時、弟子の米朝が、師匠の落語の仕事を探し、見つけてきていたのですから」落語家となった米朝は、風前の灯だった上方落語界を立て直す。その活躍は落語界だけにとどまらず、テレビやラジオなどでも売れっ子となり、全国区のスターとして、上方落語の人気を盛り上げ、全国にその名を轟かす。「先日も吉弥たちとこんな話をしました。今、落語家のなり手が減ってきている。年に一人か二人。お客様も高齢化し、若い人たちが関心をもたなくなってきている。ひょっとしたら、父が上方落語界の立て直しに奔走していたころと、同じ危機的な状況にあるのではないかと」取材したのは神戸での公演前。前日、米團治は横浜の高座に上がっていた。そして神戸公演の翌日は大阪で昼夜2の演技を称えた。1995年、阪神・淡路大震災が発生したこの年の春から、米朝のもとで車の運転手など付き人をしながら3年間、修業を積んできた吉弥の姿を、すぐ近くで見守り続けていたのが、吉弥よりも一回り年上の米團治だった。「落語界は世襲制ではない」と語るが、落語家になること、父が築いた一門を引き継ぐということは、生まれたときから運命づけられた、偶然ではない宿命だったのではないか。大学2年で落語家となるが、「戦争で自分は自由に勉強ができなかったから、大学は必ず卒業しろ。市会議員になれ」と父から言われた。また、「突然、乗馬クラブへ通え、などとも言われたのですが、今、考えると、それらはすべて、父が自分がしたくてもできなかったことだったのではないか。それを私に叶えさせたかったのではないか。言われた当時はよく分からなかったのですが、今はそう想像する24

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