KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年6月号
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定されてしまいました。そこで僕は、なんとしてもこの画期的なパビリオンを残すために、『せんい館』の最高顧問の谷口豊三郎さんに直談判する時間を、わずか5分ほどいただいて、僕のこの『せんい館』の理念を谷口氏に語りました。黙って聞いておられた谷口氏は、一言、「私はあなたのおっしゃることが難しくてわかりません。しかし、あなたの情熱だけは私に伝わりました。私たち企業人は、若い人の情熱を実現させるのが使命です。どうぞあなたの思ったことを実現してください」と、僕の横で聞いていたプロデューサーに指示して、一変してあの難問が解決してしまったのです。僕は腰が抜けるほど驚きました。僕は建築家ではありません。当時30歳になったばかりの一介のグラフィックデザイナーでした。こうして日の目を見た『せんい館』は、ほとんど無視された状態で、僕の耳には『せんい館』の噂さえも入ってきませんでしたが、44年ほど後に建築家の日本万国博覧会「せんい館」パビリオン建築 1970年17

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