霊亀2年(716)建立とされる「太山寺」は、元正天皇(715~723在位)の勅願寺として、歴代天皇から一般民衆に至るまで広く信仰を集めた。盛時には、支院41ケ坊、末寺8ケ寺、末社6ケ社を持ち、多くの僧兵を養う。元弘3年(1333)、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよ美しきかな ひょうごの文化財太山寺武具・甲冑類一式第六回工芸品として鑑賞に値する鎧兜「十六間阿古陀形筋兜」紺糸の素懸威で革包の錣(しころ)一段下げ。「色々威腹巻」に付属するが、本来は別物であったと考えられているししんのう)の令旨を受け南朝方の兵としてめざましい活躍を見せた。当時の僧兵たちが身に着けた武具・甲冑類が伝在し、11点(※)が国の重要文化財に指定されている。代表的な「色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)」は胴の胸部、腰から下7間5段下りの草摺(くさずり)の裾、大袖の肩と裾を紅糸で、その他は白糸で威し、小札(こざね)は鉄と革を重ね合わせて黒漆で固められている。「十六間阿古陀形筋兜(じゅうろっけんあこだなりすじかぶと)」が付属する。「紺糸素懸威腹巻(こんいとすがけおどしはらまき)」は背の引き合わせに胴体より長い11段下がりの背板が付く堅固なつくりではあるが、小札間を繋ぐ毛立てには簡略な手法が用いられている。腹巻は本来、背の中央で引き合わせる軽量簡素なつくりで、徒歩(かち)で従う下級武士が用いる鎧であった。戦術の変化にともない上級武士も着用するようになると、それにふさわしくより堅固に、さらに意匠を凝らしたつくりになった。兵庫県内では太山寺が所14
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