高くあげられ…》と分析し、《つまりエキゾティックな美、混血的な知性と無邪気さをそなえている》と続く。少女や裸婦、親友の竹中や自画像なども含め、小磯は数多くの肖像画を手がけている。小磯と親しかった小説家、丹羽文雄がこんな文章を綴っている。《ある日、私は講談社の講堂にはいって、野間省一社長の肖像画を仰ぎみて感動をおぼえた。それは肖像画にちがいないのだが、親しい野間さんを感じるよりも先に、小磯良平の優れた芸術に接したというおどろきであった》「彼の休息」もそうだが、小磯が描く肖像画は、描く対象者と同時に、それを描いている小磯の姿が、見る者の目の前に鮮明に浮かびあがるような、そんな迫力を放っている。1988年、小磯は神戸の甲南病院で85歳で死去した。その2年前、油絵最後の作品「御影の風景」を描いている。それは写生ではなく彼の“心象風景”が表現されていた。=終わり。次回は作詞家、作家の阿久悠。 (戸津井康之)ている…。そんな小磯の真摯で真剣な姿が、この一枚の絵画から想像できる。親友を描いたこの「彼の休息」は東京美術学校西洋画科で最高得点の98点を取り、第一席に選ばれる。同校の買い上げとなった伝説的な作品で、小磯は首席で卒業している。小磯が竹中をモデルに描いたこの肖像画が、プロの画家の道を進む大きな第一歩となったという事実も、また、運命的で興味深い。後に日本を代表する画家、詩人は、ともに神戸で切磋琢磨し、互いを鼓舞しながら青少年時代を過ごしていた…。若き日の二人の友情、信頼関係をこの一枚の絵画は色褪せることなく、一世紀が経とうとする今も、雄弁に物語っている。故郷・神戸で磨いた感性美術評論家の中山公男は、神戸という環境が画家としての小磯の体質を形成していったとして、この書のなかでこう論じている。《小磯良平の父は、神戸の外人商会に勤めていたらしい。母も、のちに養母となった人も神戸女学院出身のキリスト教の信者、住む家は山手の外人たちの混じり住む地域。このように体質的な「バター臭」に加えて、小磯良平やあるいは竹中郁たちの少年時代のいわば西洋美術体験が、第一次大戦による景気に伴って舶載された大量で、しかもかなり良質の西洋絵画のコレクションだったことも注目してよい》異人文化の「バター臭」が、そのキーワードだと強調し、小磯を語るとき、親友の竹中も神戸で育った詩人として形成づけられたことを論じているのも興味深い。中山の小磯論はさらにこう続く。《私が小磯良平の「バター臭」にこだわる理由はいくつかある》大阪生まれの中山にとって当時の神戸のイメージは「バター臭さ」に行き着くようだ。《彼の絵の初期、後期を問わず、いたるところにあらわれている。たとえば、しばしば肖像画の場合さえふくめてだが、彼の描く女たち、踊り子、少女、裸婦たちの顔立ちは、みごとな卵型をしていて額は高く丸く、眉毛は131
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