KOBECCO(月刊神戸っ子2025年5月号)
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外にあるものです。大半の知識人は枠の中という概念(コンセプト)と一方的な思考によって、本来の自由な発想を完全に見失っているのです。しかも、そのことに気づいても、それほどショックは受けていないように思います。社会は、他者が何者だということには関心があるかもしれないが、自分が何者であるのかという哲学的理念に対しては実に希薄です。半が知識と執着と情報という実に今日的なものの考え方が主流で、思考による不自由さに自縛されているように思います。人は常に自由でなければならないはずが、考えることで自由を見失ってしまっているのです。それが今日の思考パターンです。頭で考えないこと、肉体優という体験を見失った結果の悲劇です。知識という枠の中での自由です。本来の自由は枠のことの重要性で、今まで何度も語り続けてきたはずです。それが全く通じていなかったことに僕は悲しくなってしまったのです。そこで僕は、プレゼンテーションされた作品一点一点にコメントする代わりに、「描かれた肉体」ではなく「肉体が描いた」作品を選択すべきであると、学芸員自らが理解できるよう促すようなヒントになる言葉で返答しました。それは学芸員自らが頭ではなく肉体で感じとるためのサジェッションだったのです。かなりの長時間を経て、その解答が作品の選択によって返されてきました。やっと理解してくれたことに僕は胸を撫で下ろしました。当の学芸員に限らず、多くの知識人の思考は、大横尾忠則《来迎図》1983年18

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