KOBECCO(月刊神戸っ子2025年5月号)
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1918年1月9日、アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)は71年におよぶ人生の幕を神戸の地で下ろした。「火葬にし日本人として骨は外国人墓地ではなく宮崎家の墓に埋葬するように」という遺言の通り、榊一対と高提灯だけの質素な葬儀を終えると春日野墓地で荼毘に付され、日本人の僧侶により「英智院具理日夢居士」という戒名を授けられて宮崎家の墓に埋葬された。火葬の際は体が大きすぎて、膝を曲げてやっと炉に入ったという。妻、直の実家である宮崎家は日蓮宗ゆえ弔いは法華の形式でおこなわれ、参列者は400ほどだったと伝わる。死亡届は遺言執行人のテバーソン(H.F.Teverson)により神戸総領事館に届けられ、ロンドンのファミリー・レコード・センターには同年5月24日に登記されている。春日野にはグルームを発起人とし設立された外国人墓地もあった。人望の厚かったグルームを偲び多くの人々がお墓参りに訪ねるも、みな外国人墓地に行ってしまう。そこで日本人墓地にあるグルームの墓への案内図を掲げると、日本人として眠っていることを知った墓参者はみな感銘を受けたという。なお、墓は現在鵯越霊園にあり、先日綺麗に改修された。そもそもグルームの日本贔屓は徹底していた。グルームと直は15人の子宝に恵まれ、当時の医療や衛生の状況もあってうち6人が夭折しているが、それでも息子6人、娘3人に囲まれて暮らした。その教育方針は日本的で、子どもたちに西洋の真似は許さず、ハイカラな髪形でおしゃれをすると笑いながら掴んで潰し、靴などはなかなか履かせてもらえなかったとか。特に女の子は外国人との結婚はおろか、外国語の勉強すら禁じられた。そんな教育環境だ六甲山の父連載(最終回)Vol.13A.H.グルームの足跡日本人として眠る130

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