ヒガンバナ、ボタン…。その描写は繊細で、実際に薬草の標本を目の前で見るかのよう。虫に食われた葉、無数に空いた葉の穴までが細かく描かれている一昨年、NHK連続テレビ小説で放送された「らんまん」は植物分類学者、牧野富太郎をモデルに描かれたドラマだった。ドラマのなかで俳優、神木隆之介演じる主人公、槙野万太郎が、植物に触れ合うぐらいまで顔を近づけ、真剣な眼差しで植物をスケッチする姿が描かれるシーンは印象的だった。植物分類学者が植物と対峙する際のこの鬼気迫る姿を見ていて、こう想像した。後世にまで残る資料として、正確に記録し伝えるために…。薬用植物を描く際、きっと、小磯も牧野と同じ思いで絵筆を取り、植物と対峙しながら描いていたに違いない…と。描くべき対象を目の前にした、画家の命を削るような作業とは、こうだったのだ。そう想起させた。=続く。 (戸津井康之)り、互いを高めあう唯一無二の親友であったことが、創作活動のなかからも伺える。〝神戸の画家〟、〝神戸の詩人〟であった小磯と竹中。二人が〝神戸のモダニズム文化〟に浸りながら育ったことが、それぞれの創作のなかに多大な影響を与えたといわれている。薬用植物との〝出会い〟なぜ小磯は薬用の植物画を描いていたのか。そのきっかけも、また、神戸だった。第二次世界大戦末期。米爆撃機B-29は日本全土に焼夷弾を投下し、火の海にしていくが、神戸の被害も、また甚大だった。1945年6月5日の神戸空襲により、小磯は自宅とアトリエを焼失している。それから数年を経た1949年、神戸市内に、小磯の新たな自宅とアトリエが建設された。この場所は、大手製薬メーカー「武田薬品」の6代目武田長兵衛社長の自宅近くにあった。実は、武田の紹介で、小磯はこの新しい自宅とアトリエを建てることになったのだ。武田長兵衛社長は、戦前から小磯の絵画の収集家として知られ、小磯と親しく付き合っていた。空襲で家を焼かれ、困窮している小磯の支援を名乗り出たのが武田だった。その後、武田は、小磯の親子像の絵画などを武田薬品のビタミン剤などの広告のポスターに採用。また、顧客に配る武田薬品の企業カレンダーなどにも、小磯は原画を画いて提供している。そんな縁で、武田薬品の機関誌「武田薬報」の表紙のイラスト画を小磯が担当することになった。そのイラストが薬草植物だった。1956年から1968年まで。約13年間にわたり、「武田薬報」に、毎号、数々の薬草植物のイラストを小磯は描き続けていた。この表紙画を集めた「薬用植物画譜」が、武田薬品の創業190年の記念として刊行されている。129
元のページ ../index.html#129