神戸が生んだ二人の才能数々の肖像画や群像画を描き続けた日本を代表する洋画家、小磯良平(1903~1988年)は神戸で生まれ、神戸で亡くなった。ダイナミックな群像画や気品漂う裸婦像などが有名だが、一方で薬用の植物画を長年にわたり描き続けていたことをご存じだろうか?その筆致は精密で正確。人物画が放つ細やかな表情、壮大な構図で魅せた群像画などとは一線を画す〝絵画の持つ力〟の幅広さを、この薬用植物画のなかに小磯は込めた。彼が薬草植物を描くきっかけが生まれたのも、神戸だった。小磯は1903年、神戸市神戸(現在の神戸市中央区中山手通)で、8人兄弟姉妹の次男として生まれた。父は貿易商社に勤めていた。小磯は地元の小学校から、兵庫県立第二神戸中学校(現在の県立兵庫高校)へと進学する。神戸市兵庫区出身の詩人、竹中郁(1904~1982年)とは、同中学校時代の同級生で、クラスも同じ。学生時代から気が合い、生涯を通じての親友だった。その竹中も小磯と同様、神戸で生まれ、生涯を過ごし、神戸(神戸中央市民病院)で亡くなっている。同中学を卒業後、小磯は上京し、東京美術学校西洋画科(現在の東京芸術大学美術学部)へ進学。一方、竹中は中学を留年した後、地元・兵庫県の関西学院大学文学部へと進学する。小磯が1927年、東京美術学校の卒業制作時に画いた「彼の休息」のモデルは親友の竹中だった。小磯は同美術学校を首席で卒業する。同じ中学で学んだ後、片や画家、片や詩人としての道を歩んだ二人だが、ともに学生時代から文化・芸術に興味を持ち、それぞれ絵画、文学について教えあう、そして刺激を与えあうライバルでもあった。二人とも養子であることなど共通点は多く、よく似た境遇で同時代を送っていたという事実は、日本の絵画史、詩の創作の歴史を振り返ってみても興味深い。それぞれ違う道へ進んだ二人だが、小磯はその後も、竹中をモデルに何作も絵画を発表している。竹中も、また、詩の創作のなかに小磯について触れるなど、歩む道は違えど、生涯にわた神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~前編小磯良平ダイナミックな群像の対極に描いた緻密な薬用植物…〝神戸が広げた〟洋画家の可能性128
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