KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年4月号
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思って近づくと、実は赤く塗装されたこの足場自体がパビリオンの一部で、作業している人たちは人形でした。今でも、このパビリオンは前衛的で斬新です」本誌で連載中の横尾忠則氏が手掛けた『せんい館』を見た衝撃は、その後、現役大学生として映画監督デビューする自身の人生にも大きな影響を与えた、と手塚名誉館長は打ち明けた。この大阪万博で、手塚治虫は『フジパン・ロボット館』のプロデューサーを務めた。「このパビリオンに展示された数々のロボットたちのデザインは父が手掛けたものです」当時のサンケイ新聞(現産経新聞)の取材に対し、手塚治虫はこう話している。「ロボットは子どもたちの夢。それを少しでもかなえさせたい」と。『鉄腕アトム』や手塚治虫が生み出したこれらロボットたちが、その後のアイボやアシモなどへと続くロボット技術の進化に大きな影響をもたらしていく。「父がもし、今も生きていたら?きっと今回の大阪・関西万博にも関わっていたはず。現役のクリエーターとして参加していたでしょうね」と手塚名誉館長は即答した。宝塚、神戸の原風景特別展は、1989年に光文社から刊行された手塚治虫のエッセイ集『ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ』に綴られた文章とともに、このメッセージが込められた『鉄腕アトム』や『火の鳥』など手塚作品の原稿などを一堂に展示。「このテーマでの切り口は初めてで、これだけ幅広い手塚作品の原稿が同時に展示されるのは珍しく、とても貴重な機会だと思います」と説明する。「実は『鉄腕アトム』の前に、父は『アトム大使』というマンガを描いています。宇宙移民がテーマの物語です」と話すと、こんな興味深い〝秘話〟を教えてくれた。「私の祖父はアマチュアカメラマンでした。祖父が撮影した写真のなかに、神戸へ移住してきたユダヤ人家族が写った一枚がありました。そこに幼い伯父が一緒に写っています。伯父は父の弟です。幼かった父は、当時、ユダヤ人家族が神戸へ移住する姿を間近で見ていたのです」第二次世界大戦下、リトアニア日本大使館の大使だった杉原千畝は、ヒトラー政権下22

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