KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年4月号
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だけど僕の中では、全作品が連鎖しています。具体的に描かれた絵の連鎖は客観的にわかりますが、そのうち、具体的な関係は、次々と形而上的領域へと入っていきますので、客観的には全く何も連鎖していないかのように見えます。僕自身が始めた連画であるはずなのに、そのうち絵の力によって、僕は絵の支配下に置かれていきます。従って鑑賞者は、初めの10数点は「連歌=連画」として認識していますが、そのうち何が何だかわからなくなっていきます。それが、作家の狙いだとは言いませんが、鑑賞者の中で「連歌=連画」が解体していきます。われわれの住むこの世界は、いずれ崩壊する運命にあるかもしれません。この僕の「連画」の流れは、その地球と人類の消滅への運命と、どこかで結びついているかもしれません。まぁ、別の言い方をすれば、「連画の河」展は、僕の僕の今回の絵は「連歌=連画」ですので、知らず知らずに、絵を時間として眺めているのです。映画やアニメのような動画ではないですが、見る人の中では動いているのです。これはやはり現物の絵を見て、無意識の間に時間を体験していただきたいのです。今回展示される最初の一作品目は、横尾忠則現代美術館所蔵の『記憶の鎮魂歌』という作品です。この作品は、僕の郷里の西脇市を流れる加古川と杉原川が合流した地点に架かっている鉄橋を背景に、数人の同級生のグループ写真を素材に絵画化した作品です。この絵を連歌の最初の1枚として、2枚目以後、約60点の連鎖的作品が描けてしまったのです。最初の数点はなんとなく最初の絵の原形を残していますが、そのうち、インスピレーションがどんどん飛躍してしまって、とんでもない地点へ向かっていきます。けました。説明が長くなってしまいましたが、もし、これらの作品を観賞していただく時は、一点一点、前の作品を見ながら、目の前にある作品をどのように変化させていったかを楽しみながら見ていただきたいのです。従って、目の前の作品は現在で、前の作品は過去、次の作品は未来、という風に時間を追いながら観ていくと楽しめるのではないかと思います。勿論、一点ずつ観ていただいてもいいのですが、この一連の連画は、一種の時間芸術と呼んでもいいのではないでしょうか。絵画を単なる「空間」として見るのではなく、「時間」として見ていただくと、全ての作品、つまり最初から最後までが連鎖していることに気づくはずです。映画やアニメは、1枚の絵が次々と展開していきます。つまりわれわれは、変化していく中で時間体験をしているのです。多くの絵は空間体験を要求しますが、18

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