文壇であまり認められていないころから、彼の文章を読み解き、魅せられ、大ファンだと自認していた。白洲正子の手紙の最後に、「次の作品もぜひ読ませてください」と書いてあったというが、車谷が三島由紀夫賞を受賞する次作「鹽壺の匙」を上梓したのは、その7年後だった。車谷はこの7年を「悪戦苦闘の非常に息苦しいような毎日でした」と語る一方、白洲正子からの励ましの言葉があったから、「くそう、負けない!」と自らを鼓舞し、書き上げることができたと振り返っている。車谷は「20年間、文章を書いていてファンレターなるものをいただいたのは一度だけです」と語っているが、それが、この白洲正子からの手紙だったのだ。車谷と白洲正子との友情は1998年、彼女が88歳で亡くなるまで続いた。この年、車谷は直木賞を受賞した。=終わり。次回は画家、小磯良平。 (戸津井康之)完成しました。自作のイメージが映像になるということをどのように捉えましたか」》対して、車谷は「試写会に行って、よい作品だと思いました」と素直に喜びを表す。劇中では、車谷の神戸や尼崎での下済み時代の苦悩、葛藤が所々に投影されている。ヒロインを演じた女優、寺島しのぶは鬼気迫る熱演で、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞などこの年の賞レースを総なめにした。当時、私は文化部の記者として、この映画の監督を務めた荒戸源次郎を取材した。その文体、経歴、思想、そして風貌…から〝最後の文士〟と呼ばれ、自らを〝反時代的毒虫〟と名乗っていた車谷は、昭和から平成にかけて生きた〝最後のアウトロー作家〟とも呼ばれていた。「そんな車谷の〝アウトローな世界観〟に惹かれ、映画化を決めた」と話していた荒戸もまた、車谷と同様に異端児的な存在だった。自分で移動型の映画館を建て、重鎮監督のプロデューサーとなって映画を撮らせたり、また、自ら監督も務めた荒戸は〝映画界のアウトロー〟と呼ばれていた。自ら変人だと自認し、人づきあいを苦手としていた車谷だったが、編集者の前田や荒戸監督など、彼が紡ぎ出す独特な世界観に惹かれる者は少なくなかった。この連載で白洲次郎を紹介したが、白洲と同じ兵庫県三田市の墓地に眠る妻、白洲正子は文学界のなかで、最も車谷を評価していた理解者の一人だったといわれている。まだ、無名だった彼の初期の作品に魅せられ、ファンレターを送るほど熱心な…。《今から十数年前、わたしが「新潮」にある小説を発表したところ、まったく見ず知らずの人から手紙が届いたのです。その手紙をくださいましたのが、白洲正子さんでした》そのころ、白洲正子とまったく面識がなかった車谷は、《非常に驚き、恐ろしいなと思いました》とも語っている。白洲正子は「あなたの文章は、作品、あるいは言葉が生きている」と、まだ車谷の小説が117
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