KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年4月号
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念願の直木賞直木賞、三島由紀夫賞、川端康成文学賞…。作家として名だたる文学賞を受賞した車谷長吉だが、作家になるまでの苦闘は長かった。上京し、30代を迎えたころ。車谷は、一度は作家になる夢をあきらめている。《三十歳で、友だちも東京の生活も学歴も親も文学も、すべてを捨てると決心したときに、視界が開けたような気がしました》そのころの心境を、彼は自伝「人生の四苦八苦」(新書館)のなかでこう吐露している。東京から故郷の〝播州飾磨〟へ戻った車谷は、神戸や尼崎などを転々としながら料理人として生きていた。《文学へのこだわりを捨て、毎日ひたむきに生きる暮らしの中で、今までに味わったことのない安らぎを感じていました》だが、そんな「安らぎの生活」を送っていた車谷が暮らす神戸へ、新潮社の編集者、前田速夫が東京から説得にやって来る。《付き合いのあった編集者が居場所を探し当てて訪ねてきたことで、動揺し、また迷いの中へ投げ込まれてしまいました。再び東京へ帰って来いと言われてから三年間迷い、三十八歳のときに上京しました》40代に入る手前で車谷は再度、上京を決意する。《「わたしは再び無一文で東京へ帰り、会社勤めをするようになった」》今度こそ、作家となるために…。車谷の代表的な、或いは好きな小説を一作―と読書家に問えば、その多くが、「赤目四十八瀧心中未遂」を挙げるだろう。《「赤目四十八瀧心中未遂」を書いたときは、はじめは三十枚ほどの短編小説を書くつもりで書きはじめたのですが、いつしか四百七十枚までふくれあがってしまったのです。自分としても結果は意外なことになったなと思いましたね》こうして苦難の末に書き上げた長編「赤目四十八瀧心中未遂」で長年の念願だった直木賞を受賞する。その時の喜びを彼は素直にこう明かす。《三十八歳で東京へ出て行き、散々苦労して、直木賞をもらったのは五十三歳のときでした。十五年くらい、時間がかかりましたね》と。理解者に支えられこの書のなかの質疑応答の項に、読者からのこんな質問がある。《「平成十五年三月、映画『赤目四十八瀧心中未遂』が神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~後編車谷長吉神戸からの再起でつかむ直木賞…一通のファンレターが支えた創作魂116

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