た。2日目は第四突堤から吉野丸に乗り込み大阪湾を一周。「神戸らしい洗練された企画だ」と称賛された。神戸RC創立10周年を迎えた1934年、地区協議会が高野山の金剛峯寺で開かれた。与えられた課題「ロータリークラブを社会一般に正しく認識せしめる方法について」に対する答案として、「まず用語は外国語を避ける。ロータリー標語はやさしい日本語、集会の形式も直訳風を改める」など具体案を挙げた。地区年次大会の神戸開催が予定されていた1936年、「二 ・ 二六事件」が起きる。余興は中止とし、5月2日、3日の大会は懇親本位ではなく会議本位にプログラムを切り替えて開催し、成功のうちに終了した。戦争に向かう暗い時代の中で 1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日華事変は泥沼化し、RIをはじめ、欧米その他のクラブから和平修復を望む電報が入る。例会でも関心の的となり、戦争色が強くなるとともに、第70地区協議会でも、国際親善をうたうよりも殉国奉公の覚悟が必要とし、出征皇軍への感謝などが議題となった。翌年7月、阪神間は未曽有の水害に見舞われ、7日に小菅金造会長のもとで初めての例会が予定されていたが、同会長の家は流され、会員の消息もわからず、中止となった。この頃から、水害の影響や会員の出征で例会の出席率が悪くなり、家族が出席。その一環として、皇紀2600年に当たる1940年、会員・家族の皇陵参拝が始められ、毎月1回欠かさず続き、のちの木曜会の時代にも引き継がれた。1937年以降、ドイツ、イタリア、オーストリアで相次いでロータリークラブがナチスによって解散させられ、日独伊3国同盟を結ぶ日本にも及ぶことを予測し、神戸RCはRIを自発的に脱退、1940年9月5日の例会で解散を決め、「木曜会」を発足。名称は変わっても、会員間の友情と奉仕の精神は受け継がれた。1941年12月8日、太平洋戦争に突入し、1945年になると空襲による焦土化が進む。神戸も例外ではなく、6月5日の東神戸空襲で戦後、神戸RC再結成のチャーターナイトに於ける来賓祝辞(1949年)70
元のページ ../index.html#70