料理店で働いているときに訪れた。 《彼は神戸までやって来て、須磨離宮の近所に泊まって、朝四時までわたしを説得しました。前田さんも大変なんだなあと思ったわたしは料理人をやりながら、夜に小説を書いて東京へ送ることにしました》ここで登場する「前田さん」とは、車谷が直木賞を受賞するきっかけを作った新潮社の編集者、前田速夫のことだ。《東京から出版社の人が須磨まで訪ねて来て、朝まで説得され、三十八歳の夏、また上京してきた》とあるから、前田は何度も東京から神戸へと足を運び、車谷を説得し続けていたことが分かる。前田は車谷の一回り年上の編集者で武者小路実篤らを担当し、文芸誌「新潮」の編集長を務めた。2005年には「余多歩き菊池山哉の人と学問」で読売文学賞を受賞している。前田の熱心な説得によって、再び上京した車谷の作家人生が、ようやく再始動する。=続く。(戸津井康之)「田舎の高等学校三年生の五月」だったと車谷は綴っている。東谷は地元の姫路市立飾磨小学校から姫路市立飾磨中部中学校へと進み、姫路市立飾磨高校に通っていた。この本のなかに、「車谷長吉氏への質問函」という項目がある。読者たちからのいくつもの質問に車谷が答えたもので、質疑応答の形式で綴られている。「今どきの高校生や大学生に、これだけは読んでいて欲しいと思う文学作品は何かありますか」という質問に対し、車谷はひとこと。「夏目漱石『こころ』」と答えている。執念の説得の末に…1964年、高校を卒業した車谷は上京し、慶応大学文学部へ進学する。「作家になれるとは思っていなかった」というが、漱石や森鴎外への憧れからの上京だったと明かしている。作家となる夢は抑えられなかったのだ。大学卒業後、東京の広告代理店に就職。その後、出版社へ転職し、勤務の傍ら小説の執筆を始めるが、なかなか芽が出ず、執筆活動に行き詰まり、夜行列車で逃げるようにして、故郷の姫路へ戻る。30歳になっていた。実家へ帰った車谷だが、母親からは「一生、下足番でもしていろ」と叱られ、職業安定所へ行くと、そこで募集していたのが、「本当に下足番だった」と言う。作家をあきらめた後の暮らしぶりを車谷はこう赤裸々に綴っている。《三十歳代の八年間は、料理場の下働きとして暮らしていた。可能ならば、出家して修行僧として生きて行きたい、としばしば思うて京都の寺へ訪ねて行き、出家の方法・手続きを尋ねた…》と。東京で作家になる夢を砕かれ、故郷の姫路へ戻るも、家族にあきれられ、実家を飛び出し、三宮など神戸、西宮、尼崎…の料理店を転々としながら働き、再び作家となるために上京したのは、38歳のときだった。その転機は、車谷が神戸の143
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