公共性という視点を持ちながら六甲山を拓いたアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)だが、その社会的貢献は山の上にとどまらず、来日間もない頃から世のため人のためにと汗を流していた。神戸開港の翌年の1969年、居留地の自治組織である居留地会議は庁舎を設け、ここを拠点に警察や消防、街路整備など居留地運営に関する公共的な事業をおこなっていた。グルームが最初にその活動に関わったのは1871年で、はしご付消防車で出動する消防隊の一員として名を連ねている。また、現在の東遊園地に体育館を建設することを居留地会議で提議、これが満場一致で可決され1876年に竣工した。比較的早く日本にやって来て人望も厚かったグルームは、外国人の親睦団体の運営にも積極的だった。1870年発足の神戸レガッタ&アスレチッククラブ(KR&AC)では設立準備委員を務め、創設者のシム(Alexander Cameron Sim)を支えた。*コーベ・クラブ(The Kobe Club)でも主要メンバーの一人であり、1912年撮影の集合写真では最前列中央に写っている。グルームは一時期拠点を置いていた横浜でも、外国人社会の一員として役割を果たす。1889年に日米改正条約が調印されたが、この直後の横浜商業会議所の年次総会で居留地における永代借地権の問題の有利な解決に向けた提案をおこない可決されている。一方、不平等条約の改正に反対する居留外国人が多い中で、神戸に戻ったグルームはハンター(Edward Hazlett Hunter)とともに日本に有利となるようにと母国に働きかけたと伝わる。六甲山の父連載Vol.11A.H.グルームの足跡人のため、社会のために140
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