KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年2月号
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の源泉に少しだけ辿り着けた思いがした。《私はこの時どん底に堕ちこんでいました。然し、もうこれ以上落ちようがないと云う意識は、私にとって一つの時代の終結を意味することに気づきました》絶望のどん底で、魁夷は己をこう鼓舞する。《全てが無くなってしまった私は、又、今生れ出たのに等しい。これからは清澄な目で自然を見ることが出来るだろう》と。そして、彼は立ち上がる。《腰を落着けて制作に全力を注ぐことが出来るだろう。又そうあらねばならない。こう考えた時に、私の眼前におぼろげながら一筋の道が続いているのを見出すのでした》この後、魁夷の画家としての快進撃が始まる。一筋の道は、やがて画家の王道となる。人生のどん底を知り、魁夷は未踏の道を切り拓いていく。そして〝清澄な目〟で人々を魅了する風景画家としての道を歩んでいく。=終わり。次回は作家、車谷長吉。(戸津井康之)み隠さずに伝える。そのときの様子が、こう記されている。 《母親の方は一寸心配そうな顔付をしたように思えましたが、父親の方は一向平気で、「借金なんて絵描きにはどうでもいいことだよ。又、今のその生活、もう十年位続けないと、ものにならないね」とあっさりしています》結婚を断られる覚悟で、父の多額の借金などを素直に打ち明ける魁夷といい、こんな苦境を聞かされても、「もっと苦しめ」と魁夷に言い放ち、娘を嫁に出す小虎といい、大画家となる人間のものの考え方、生きざまは豪放磊落で肝が座っているとしかいいようがない。それも並外れたレベルで…。無事に魁夷とすみは結婚するのだが、その後も苦労は続いた。結婚2年後に魁夷の父が多額の借金を残したまま死去。3年後、母も亡くなり、さらに弟が重病を患う。追い打ちをかけるように、画家への一歩を踏み出すために日展第一回に応募した作品が落選…。そこへ「弟危篤」の報せが入る。魁夷は弟が入院する富山の療養所へ向かう。《私は持って行った紙にいろんな絵を描いて弟の寝ているところから見える壁にピンで止めてやると、マリアの像も描いてくれと云うので、どうにか聖母に見える絵も描きました。「花園のようだ」と弟はそれらの絵をしげしげと見ていました》弟は最期に兄に絵を描いてくれとせがんだ。魁夷はどんな思いで、これらの絵を描いたのだろうか。一週間後、弟は亡くなる。《母の骨を納めたばかりの墓に弟のを納め、これで私の喜びを一番親身になって喜び、私の悲しみを最も深く悲しんでくれる肉親は一人もいなくなったことを思いました》魁夷は弟のために病室で一心不乱に絵を描いた。現在も多くの人が、美術館などで展示されている彼の大作を観て、その類まれなる画家としての才能、技術、偉大さを知るが、弟のためだけに、病室で一人、絵画を描いていた名もなき若き画家、魁夷がいたのだ…。その姿を想像すると、なぜ彼の絵は観る者の心を魅了し、郷愁を呼び覚ますのか。その理由119

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