KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年2月号
118/124

相次ぐ試練「自分は絶対に画家にはなれない…」。日本画壇の巨匠、東山魁夷は、ずっとそう思い続けながら青少年時代、神戸で暮らしていた。両親は不仲で父の事業はうまくいっていない。「気の毒な母を、なお悲しませるわけにはいかない」と魁夷は画家への思いを断っていた。「こんな環境でなぜ自分が画家になれるものか」と夢を封印していたのだ。自伝「わが遍歴の山河」(新潮社版)には、魁夷の苦悩、葛藤が赤裸々に綴られている。だが、大学進学を前に、彼は決意する。《それでも、画家になりたい気持が強くなって、中学校を終える頃漸く美術学校を受ける決心をしました。父は反対でしたが結局、「身体の弱い子だから仕方がない。まあ、棄てたようなものだ」と遂にあきらめたわけです》後に世界的画家にのぼり詰める、まだ10代の我が子に対し、実の父が、「まあ、棄てたようなものだ」と言い放つ…。不幸な話だがそのおかげで魁夷は無事、東京芸術大学に進学するのだから運命は皮肉だ。不利な環境に抗いながら彼が画家になることは宿命だったのだろう。だが、彼の逆境はまだ続いた。《私の欧州滞在は、父の病気と云う出来事の為、なお一カ年の留学期間を残して打ち切ることになりました》芸大卒業後、交換留学制度で魁夷はドイツへ渡るが、途中で神戸へと引き返す。彼を待ち受けていたのは、父の病気に加えて、父が商売で作った多額の借金だった。《私はやりきれなくなって、自然の懐の中へ飛び込んで行き、私にとって最も親しい山々や樹々に話しかけ、そこに束の間の安息と慰めを見出すのでした》魁夷は故郷・神戸の自然に身を置くことで心を落ち着かせた。幼い頃、自室に引きこもっていた彼の心を解放してくれたあの神戸の自然がその後も彼の心を支え続けていたのだ。《私は、自然の中へ常に入って行ったものの、心を鏡のようにするには、まだまだ多くの試練を経なければなりませんでした》更なる不幸が魁夷に重くのしかかってくる。弟のために描くマリア像1940年、魁夷は、画家、川﨑小しょうこ虎の長女、すみと結婚するが、まだ彼女と顔を合わせる前に、義理の父母となる小虎夫妻にあいさつに出向く。そこで彼は実家の窮状を包神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~後編東山魁夷絶望から見えた一筋の道…救ったのは神戸の自然118

元のページ  ../index.html#118

このブックを見る