六甲アイランドで被災─阪神・淡路大震災の被災体験をお話いただけませんか。八田 当時は六甲アイランドに住んでいまして、縦揺れが激しくかなり揺れました。明るくなって周りを見てみると、液状化現象が起きていて、ガントリークレーンが大きな被害を受けていましたね。─六甲アイランドは孤立化していたようですが。八田 その頃は尼崎の病院に勤めていたのですが、六甲大橋に大きな段差ができていて、車は一度停まって斜めに行かないと通れませんでした。六甲ライナーの線路が破損し、阪神高速の湾岸線も倒壊していましたから移動がままならなかったです。震災翌日、対岸の火力発電所が爆発するかも知れないということで、六甲アイランドの南の方へ一時的にみんなで避難しました。─ライフラインも途絶しました。八田 とにかく家の電話が繋がらないので、小銭をかき集めて公衆電話へ走りました。電気は来ていましたが、水道が止まっていました。六甲アイランドの街の真ん中に人工の川がありますが、そこまで行ってバケツで水を汲んできてトイレを流したんですよ。食料は、六甲アイランドにはパンやかまぼこなど色々な食品工場があり、出荷できないので住民にということで、色々と助けていただきました。─勤務先まではどのようにして通いましたか。八田 子どもが小学生だったということもあり、震災の翌週には妻の実家のある高槻へ避難して、そこから通いました。4月くらいまでしばらくそこで暮らしたのですが、大阪は全く何事もないんです。心配なのでたまに家へ帰ったのですが、その頃は阪神電車が青木まででしたので、青木から歩きました。避難先から戻った頃はJRが住吉まで再開し、六甲ライナーの代替バスも出ていたのですが、六甲アイランドから住吉まで2時間もかかることもあり難儀しました。DMATとJMATの創設─当時の兵庫県医師会は、どのように対応していたのですか。八田 当時は瀬尾摂会長で、まずは会員の安否、医療機関被害状況や診察状況などの情報収集を行いつつ、緊急医療に取り組みました。また、多くの方が犠牲になられましたので、その検死も行いましたが、検死ができる医師が限られており、特に長田区は焼死者が多かったために困難を極め、大変苦労しました。被災地の医療活動については、日本医師会や近畿医師会連合、厚生省(当時)と災害対策本部を設置して対応しましたが、日本医師会に依頼して全国の医師会から助けにきていただきました。95
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