KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年1月号
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神戸は地震に「備える」以前に、「起きない」が前提だった久元 震災前の神戸市民は地震が起きるなど想像もしていませんでした。幼少期から住んでいた私も地震の記憶はほとんどありません。大学進学で東京へ行き、その後も各地に赴任した私に母は「地震がない神戸へ帰って来たらいいのに…」などと言っていました。これが神戸市民の標準的な感覚で、「備える」以前に、「起きない」が前提でした。調べてみると、極めて少数の職員が「直下型地震の可能性を踏まえた対応」を検討していたという資料を見つけました。庁内で共有されることはなかったようです。そして突然未曾有の災害に遭遇し、当時の市長をはじめ、職員の皆さんが自分を顧みることなく全力で対応しました。松村 私は当時、東京におり、発災から2週間ほどたってようやく帰ってきました。芦屋にいた両親の家は液状化で傾き、兄家族が住む東灘区のマンションは1階部分が崩れ落ちました。父が昔住んでいた甲南本通商店街あたりに行ってみると建物は倒壊して焼け野原、母校の灘校の体育館はご遺体の安置所になっていました。建築の専門家の立場で、個々の建物がなぜ壊れたのかは理論的に説明ができます。しかし、あれほど大規模で神戸市長 久元 喜造さん33

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