KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年1月号
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「黒澤監督が亡くなったとき。本当は、もう映画の仕事を辞めようと思っていたんですよ」と小泉監督は打ち明けた。「あなたに撮ってほしい。そう黒澤久雄さん(黒澤監督の長男)から頼まれて…」と振り返る。56歳での監督デビューだった。28年の間、黒澤監督に師事してきた小泉監督の人生を振り返るとき。その根底には〝無私の精神〟があったことが分かる。師からの継承『雪の花―』の撮影カメラマンは上田正治。美術は酒井賢。助監督をしていた小泉監督とともに黒澤組を支えた盟友で、『明日への遺言』など幾多の小泉作品を支えてきた、小泉監督が最も信頼を寄せる小泉組常連である。デジタル全盛時代、あえてフィルムにこだわるのも〝黒澤組のDNA〟といえるだろう。「35ミリフィルムを使い、現場では2台のカメラを回しています」と複数台のカメラを駆使する〝黒澤イズム〟も継承している。デジタル撮影に慣れてきた若い世代の俳優、松坂や芳根たちは「撮り直しの効かないフィルム撮影は緊張します」と明かしているが、小泉監督は、「リハーサルを繰り返した後、この一発撮りの緊張感がいい演技を引き出せるのです」とその理由を語る。ロケハンにこだわるのも黒澤イズムの継承。日本の四季や雪山の大風吹のシーンなど、セットでは出せない臨場感に満ち光栄でうれしかったですよ」脚本を清書する際、黒澤監督にはよくこう言われたとも。「原稿用紙が破れるぐらいの強い筆圧で書け!」と。〝命を削りながら脚本に魂を入れて書く〟という作業を惜しまなかった黒澤イズムを間近で叩き込まれたのが小泉監督だった。2000年、黒澤監督の遺稿となった『雨あがる』の未完成の脚本を小泉監督が最後まで仕上げ、そして初監督を務めた。26

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