KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年1月号
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くなります。以前、南方のどこかの首長が日本に来た時、年齢を聞かれたが、自分は何歳か知らないと言っていました。この人にとっては年末年始などないのです。まあ、年中常夏ということもありますが。実は毎日が終って、次の日にまた、その毎日というのが始まります。夜を大晦日、朝を元旦と思ったらどうでしょう。昨日より今日は一日歳をとったのです。それを365日という季節の変化の中で考えると、どうしても大げさになってしまいます。ともかくとして、ある年齢になると、年末年始がどことなくうっとうしくなります。何かに追いたてられて、忙しい気分になります。これは生命力の問題じゃないでしょうか。生き物は生と同時に死に向かって歩むのです。年末年始はそれを無意識に感じているのではないでしょうか。もし、死に対して拘りがなければ、1年の終りも始まりもそれほど意識はしません。あゝ終わったか、そしてまた始まるのか、これだけです。人間の意識からもし死の概念をはずすと、歳のことなど全く関心がな僕の年末年始は特別の「時」ではありません。特別の時に思えるのは、新聞、テレビのせいです。特に年末年始をあおるのはテレビです。昔、テレビがなかった頃の年末年始は、静かに終って静かに始まったように思います。子どもの頃は近所の子どもと凧あげをしたり、カルタをして子どもなりの祝祭気分になったものです。ところが大人になって、老人になると、年末も年始もどうでもいいことになります。歳をとることが死に近づくことだからです。若い頃だって同じで、死に近づいているのです。子どもの頃はTadanori Yokoo美術家横尾 忠則撮影:横浪 修神戸で始まって 神戸で終る 大晦日も正月も 未来へ進んだだけのこと18

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