KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年1月号
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いていた〝画家像〟が興味深い。ある日、中学校の裏山で魁夷が神戸の自然を写生していると、突然、崖の向こう側から男が現れ、魁夷の傍に来てじっと描くところを見ながら、魁夷に話しかけてきた。《「君は絵描きになるのか」とぶっきら棒に尋ねるのです。私は突然の問いに一寸たじろぎましたが、「僕は絵描きになんかならないよ。食えないもの」と答えました》この後、男が投げかけた言葉が、魁夷の胸に突き刺さる。《「君、野良犬だって食っている。餓死しないだけにはな。人間が食うために生きるのか」》心の底では画家に憧れる中学生に、この男が放った辛辣な言葉は衝撃だった。そのとき、「野良犬はごめんだ」と魁夷は思いながらも、「画家になりたい」という夢は、もう抑えようがなかった。神戸の自然の中で写生中、魁夷は画家になろうと心に誓った。=続く。(戸津井康之)そんな環境で育った魁夷が、生涯にわたって自然を描き続ける画家となることは運命づけられていたのかもしれない。《いつも私を慰めてくれたのは神戸をめぐる自然であり、又私にとって救いとなったのは絵に対する精進の道を選んだからのことであったと思います》 魁夷は1921年、兵庫県立第二神戸中学校(現在の県立兵庫高校)に入学する。しかし、中学2年に上がると、突然、原因不明の頭痛や発熱を患い、中学3年の一学期の途中から休学し、淡路島の知人宅で静養することになる。海辺近くに建つ知人宅に身を寄せ、大自然のなかで暮らすことで、しだいに魁夷の病は治り、心身ともに癒されていく。彼は幼いころから、度々、この淡路島を訪れ過ごしていた。《淡路島――私がよく夏休みの数日を過していた志筑の砂浜へはお盆の頃になると、大海亀が卵を産みに上って来たり、洲本への断崖を危げに馬車が通っていた時代ですから、今から考えるとすべてがのんびりしていました》こんなふうに淡路島の自然に癒されながら。「絵描き」への葛藤《絵を描くことは幼い時から好きでしたが、その方面に何の関係もない家でしたから、画家になろうと決心して美術学校を受けるまでには、幾つかの曲折がありました》美術界に多大な功績を遺した魁夷が、幼いころには画家になる夢をほぼあきらめていたことが、この自伝のなかで記されている。《小学校の頃は、大人になったら偉い人になって、母に楽をさせてやりたいと思っていました。その偉い人とは、絶対に画家ではなくて、何か市民的な職業の成功者を頭に浮かべていたのです》今で言うと、成功した実業家か、あるいは大企業のビジネスマンなどであろうか。「絶対に画家ではなくて…」と彼が吐露した本音は衝撃的だ。さらに、中学時代、魁夷が抱143

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