KOBECCO(月刊神戸っ子)2025年1月号
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の斜面を整地して2坪ほどのティーグラウンドとグリーンが設置できるようになり、1901年5月、4ホールながら日本初のゴルフコースがついに完成する。これにて国内でゴルフができるようになったと外国人たちは喜び大人気となったが、やはりホール数が少ないので拡大を求める声が。そこで竹谷清介の所有地や唐からと櫃村の共有地を借り受け拡張していくが、事業規模が大きくなるので神戸ゴルフ倶楽部を創設して法人化することになり、1903年2月に居留地の商工会議所でその設立総会を開催し、26名が集う中、トーニクラフトが会長、ミルウォードが主将、グルームが名誉書記に選任された。ちなみにもう一人の言い出しっぺのアダムソンは、マクマートリー(McMurtrie)とともにコース設計を担当している。グルームの提案で入会金を不要としたため倶楽部の登録者は122名にものぼり、そのリストには外国人に交じり川崎造船所の松方幸次郎や住友財閥の住友吉左衛門(十五代・西園寺公望の実弟)の名も記されている。程なく9ホールのコースが完成し、同年5月24日には神戸ゴルフ倶楽部の開場式が。英領事のホール(J.H.Hall)、神戸市長の坪野平太郎ら50名ほどの紳士淑女が見守る中、兵庫県知事の服部一三が記念すべき第一打を放つもチョロリと転がるだけで、万雷の拍手の中、それをグルームが拾い上げた。そのボールは現在も神戸ゴルフ倶楽部にて、クラブハウスのマントルピースのオーナメントとして大切に保管されている。神戸ゴルフ倶楽部 イラスト/米田 明夫141

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