す。わからないことがわかったらそれでいいのです。僕が曹洞宗の本山、總持寺に行った時、庭のイチョウの木から黄色い葉っぱが地面に落ちて、実にキレイだったんです。そこへ雲水(若い修行僧)がやってきて、掃いてくれ、と言うのです。僕は反論しました。「こんなにキレイな落葉の美しさがわからないのですか」と。「まあ、そう言わずに掃いてください」〈このくそ坊主〉と思いながら、掃けと言うから掃きました。するとまた次の日も同じことを言うのです。ざまあみろ、こんな風に毎日落葉は落ちるのです。しかし雲水に言わせると、僕の言葉は理屈です。落ちても落ちなくても、大事なのは「掃く」という行為だと雲水は言いたいのです。「掃け」という雲水の言葉、「事実」に従えばそれでいいのです。また明日も葉は落ちるでしょう。それより「掃く」という事実、それが重要だというのです。落葉が地面に落ちている様事実、これでいいのです。なぜ打ったのかとか、一体このお坊さんは何を考えているのか、なんてどうでもいいのです。事実は「パシン!」です。このことに意味も目的も計画も大義名分も、そんなややこしいことはありません。われわれは普段、事実を事実として見ている者はあまりいません。それに色々理屈をくっつけて見ているのです。つまり分別をつけて見ようとしているのです。つまり、理屈をつけて、白黒はっきりさせようとしているのです。インテリの世界です。インテリは物事に分別をつけます。白か黒か、どっちかにしたいのです。そんなことは意味のないことです。どっちだっていいのです。無分別でいいのです。こう書くと何が何だかわからなくなってきた、とおっしゃるかもしれませんが、この世の中にあるものはひとつひとつに意味などないのです。ほっとけばいいのです。禅はこのような世界観をもっています。わからないことはわからないでいいので聞こえたんでしょ。これが禅です」こんなチンプンカンプンな理不尽なことってありますか。凄いことになったと思いましたが、僕はいっぺんに禅の不可思議な世界の虜になってしまったのです。禅なんて、探究も追及もするものではないのです。ただ「パシン」というその手の音の意味など、考えることはないのです。こうして僕は禅の世界に入っていったのですが、考えたってわかりません。だから考えないことにしたのです。考えることが今までの常識だったのが、禅寺では考えないことが常識です。こんな楽なことはないと思いました。色んな抱えている問題は、全て考えた結果です。それを「考えるな」と言わんとしているのです。ほぼ1年間、曹洞宗、臨済宗と宗派の違う禅寺荒らしが始まりました。結論から言います。禅寺で僕が教わったことは、事実を事実として見ることです。パシンと両手を打った18
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