神戸で迎える〝130年〟の節目神戸で〝日本人・小泉八雲〟として生まれ変わったギリシャ人、ラフカディオ・ハーン。幼少期に親元を離れた彼は流転の人生を送っていた。来日したのは今から134年前。バンクーバーから客船に乗り、17日間かけて太平洋を渡り日本の横浜港へとやって来た。1890年4月4日。米国の通信社の海外特派員として日本へ降り立った彼が当時の様子を綴った描写がある。「ラフカディオ・ハーン 日本のこころを描く」(河島弘美著、岩波ジュニア新書)に船上から初めて日本を見て感動した彼の思いがこう表現されている。《かすかに青いものが、黒々とした海の果てに見えてきた。美しく険しい山が連なっている。はじめて見る日本の姿であった》 遂に日本の地を踏みしめた八雲だったが、わずか2カ月後の6月。米国の通信社へ絶縁状を送りつけている。理由は、一緒に来日した挿絵画家の方が、彼より多額の報酬を約束されていたことを知ったからだ。彼の〝頑固さ〟は終生変わることはなかった。否、「頑なに変えなかった」と言った方がいいかもしれない。彼は新たな赴任先、出雲の国・松江へと向かう。島根県の尋常中学校と師範学校で英語教師として働くことになったのだ。この松江に彼の人生を大きく変える〝運命の人〟が待っていた。妻となる小泉セツとの出会いだ。セツは松江藩士の娘で、彼の身の回りの世話をするために住み込みで手伝いに来ていた。すぐに八雲とセツは惹かれあい結婚するが、夫婦であると同時に、二人は〝文学の創作パートナー〟という独特の信頼関係を築いていく。熊本の中学校に赴任するため、彼は教え子からも慕われた松江を離れ、家族とともに転居する。この地でセツは長男を出産する。二人は松江で日本風の結婚式を挙げていたが、籍は入れていなかった。当時、西洋人が日本人と結婚したり、帰化することが、とても困難だったことは想像に難くない。そして、彼は〝運命を変える地・神戸〟へと家族を連れてやって来る。教員を辞めた彼は熊本を離れ、1894年10月、英字新聞「神戸クロニクル社」の記者とし神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~後編小泉八雲「日本を最も愛した西洋人」…神戸で育んだ日本の心130
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