KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年12月号
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はなかったようで、無謀とも思える六甲山の保養地化のアイデアに賛同、これを受け1895年、都賀村三ヶ村入会地の20年間の借地権を得た。その面積は約107町7反=約107ha、目的は「納涼遊園地敷地」と契約書にある。当時はまだ神戸における外国人の居住は雑居地に限られており、トラブル防止のためか借地人の名義はグルームの長男、宮崎亀二郎だった。グルームはすぐさまここに別荘を建てたが、その仕事を依頼したのは灘・東明村の平吉という腕利きの大工で、いつもブツブツ言っていたので「ブッ平」とよばれていたとか。完成したコテージ風の建物は和洋折衷で、1911年時点では客室や湯殿、図書室まであったという。母屋から少し下ったところの三国池を庭にとり入れ、敷地内の雑草は丁寧に抜かれてつつじなどに彩られていたこの楽園は「101」とよばれて、その表示石は現存している。これはグルームの商館が居留地の101番にあったことにちなむと多くの資料に記されているが、当時の101番はドイツ系の商館であり、グルームが長年勤めたモーリヤン・ハイマン商会も101番に登記したことはないようで、その呼称の由来は謎だ。ここに六甲山ではじめてのリゾート生活がスタート。それを愉しむグルームは神戸の外国人たちの羨望を集め、またグルームも大いに宣伝したため、それからわずか15年のうちに山上には56戸もの別荘が佇むようになり、六甲山はお邪魔山から憧れの山へと変貌していった。*資料によっては「トニークラフト」「ソニクラフト」「ソルニクラフト」「サルニクラフト」などの表記もみられる六甲山のグルームの別荘 イラスト/米田 明夫129

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