明治初期の六甲山は、登山信仰のほかは氷や野草など得るくらいしか活用されておらず、乱伐で薪もろくに採れないようなはげ山だったことは幸田露伴の紀行文からもうかがえる。現在生い茂る緑は、神戸港への土砂流入を防ぐために1900年頃からはじまった砂防工事と並行しておこなわれた植林によるものだ。屏風のようにそそり立つこの荒れ山に愛情を抱く者は少なく、むしろ発展する神戸と北摂や丹波との交通を遮断する邪魔な存在と認識されていた。アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)は登山や狩猟を好み、生糸貿易のため横浜に滞在したころは静岡の山々へ出かけていたという。そんな彼は1889年、番頭の能登弥吉のすすめで三角帳場南西角、現在の東門筋の北端あたりに2階建ての和館を購入するが、六甲山へ関心を持つようになったのはその頃からのようで、一説では「マイコ」と名付けた猟犬を連れ六甲山で猟を楽しんだとされている。しかし、彼の末娘のりうの手記には「父が六甲でシューティングをしたのが開山の始まりだとよく記されていますが、六甲へはシューティングを止めてから登ったのです」とあり、むしろ狩猟で殺生をした贖罪の気持ちから、六甲山を拓き神戸の人々の役に立ちたいというのがモチベーションだったという。動機についてはほかに、横浜にいた頃「軽井沢の父」といわれているショー(Alexander Croft Shaw)の影響を受けたとか、宮内庁の箱根離宮(関東大震災で倒壊)を見て思い立ったという言説もあるが、これらは想像の範疇を出ないようだ。いずれにせよグルームは友人で医師のトーニクラフト*(Thomas C. Thornicraft)に相談すると、彼は大頭だったそうだが石頭で六甲山の父連載Vol.8A.H.グルームの足跡六甲山の別荘128
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