KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年11月号
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それまで父はダイヤモンドの加工販売をやっていたんですが、当時、ソ連が人工ダイヤを開発したという話を聞き、「これからの時代は株や!」と転身。私は、父の仕事を見て育っていたので、ダイヤモンドの仕事をするつもりでいました。そこから金融の世界に入った理由は何だったのでしょうか?完全に嵌められました(笑)ダイヤモンドを扱うには、結局、目利きが必要です。そのための学校があるんですよ。ニューヨークにある世界的な宝石の教育機関であるGIAです。そこに行きたいと父に告げたところ、「お前ニューヨークに行ってどうやって生活するんだ?」と言い出しまして。「俺に考えがある」と、当時、関係が深かった岡三証券に口を利くから給料をもらいながら勉強しろということで、一旦は就職し、1983年にニューヨークの現地法人に赴任しました。しかし、誤算がありました。GIAには昼間のコースしかなく、夜間がなかったのです。社長に「ダイヤモンドの勉強をしに来たので証券の仕事はしません」と伝えましたが、「せっかく来たんだから3カ月だけ証券の世界を見てみろ」と諭されました。そこで見たウォールストリートの迫力や熱気に、ダイヤモンドの世界よりダイナミックで面白いと魅了されましてね。そこから証券人生が始まりました。そして、岡三証券で証券取引の基礎を修得し、営業を経験した後、1986年に光証券に入社しました。それから、バブル崩壊など厳しい時代になりましたね。私共は、一般個人の方の資産をお預かりする売買委託取引、リテールを得意としてきましたが、1996年に東京証券取引所の正会員に入会したことをきっかけに、自己資本で株式を売買するディーリング業務に特化した部門を東京に開設しました。この部署の成績が良く、バルブ崩壊や阪神・淡路大震災で落ち込んでいた業績をカバーして余りある業績を上げていました。私が社長に就任したのは2003年ですが、その3年後には、過去最高の経常利益34億円を計上します。しかし転機は、日本取引所グループが2010年に導入した新売買システムでした。注文処理の速度が、1000分の1秒単位。これがきっかけに、腕利きのディーラーたちが勝てなくなったのです。そこで、2018年に苦渋の決断でディーリング部門を閉鎖しました。その後、リテールの原点回帰や、コロナ禍ではモバイル端末を使った接客方式の導入など、時代に合わせた経営をされていますが、経営上で大事にされていることは何でしょうか?31

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