す。「本高砂屋」や「凮月堂」といった老舗も、子ども心に印象に残りましたね。そんなハイカラで立派な元町商店街があって、一方でそれと平行して高架下がある。神戸は山と海が平行していて、その間に阪急もJRも阪神も平行、高架下と元町も平行、みんな東西の筋で南北の位置関係で性格付けができるという、ものすごくわかりやすい構造を持っていますよね。そのことが記憶に残っています。東京や横浜とは全く違いますね。─灘高時代の思い出を。松村 高校時代は住吉に住んでいて、灘高も住吉川のすぐ横。物心ついた頃の住吉川は、川沿いをダンプが行き交っていました。渦が森を造成していた時期で、山を削った土砂を海へ運んで埋め立てていたんですね。その頃は川べりを歩くことなどできなかったのですが、それが高校の頃には遊歩道になっていて、夜なんか友達と気持ち良く歩いていました。テニス部の練習の最後には住吉川沿いを走るんですけど、白鶴美術館まで行って、Uターンして魚崎駅まで戻って、上り下りで学校へ帰るんです。結構走っていたのに、そんなに強くもならず(笑)。でも気持ちの良いランニングコースでしたね。当時は山手幹線も六甲アイランドもなく、海が見えて景色が良かったですよ。─住吉川周辺には阪神間モダニズム時代の名建築がありますが、建築の道に進んだことと関係がありますか。松村 特にありません。モダニズム建築とかはどちらかというとプロのものなので、見に行くようになったのは建築を学ぶようになってからです。─東大に進学して建築を学ぶようになってから、神戸周辺で印象に残った景色はありますか。松村 芦屋浜の高層住宅ですね。夏休みに東京から帰ってきて住吉駅へ電車で向かっている時、芦屋浜の埋立地にニョキニョキ建っていて「何や、あれ!」って。実は国家的なコンペで最大規模のプロジェクトで、その4年くらい後、大学院で隈研吾さんと同じ研究室だったんですけど、我々の先生の*内田祥よしちか哉先生がその選考委員長だったと知りました。─いまの神戸の姿を見て感じることは。松村 東京や横浜は開発圧力が強いので、ちょっと目を離すと違う感じになり、渋谷なんか特にそうです。神戸は時々帰ってきてはいましたけれど、50年ほど経っても基本的な構造は昔と一緒ですが、変わったなと思うのは、これはどこの街でも同じかも知れませんけれど、レストラン「ハイウエイ」とか喫茶店「パウリスタ」とか知っている店がなくなったなと。「ファミリア」も移転してしまったし、歩いていてちょっと元町が寂しいと感じます。三宮センター街は活気があるけれど、中身が全国どこ行っても同じ店になってきていますよね。大きな時代の流れで神戸に限ったことではなく、仕方がないことなのかもしれませんが。住吉川から海を望んで時代の波に呑まれる神戸24
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