KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年11月号
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いますね。そういう人は、もしかしたら単一の人格の方かもしれませんね。白黒はっきりつけて、ゆるぎない信念の持ち主です。こういう人はこういう人で尊敬の対象になっているかもしれませんが、僕が評価する人は、物事の良し悪しの分別をつける人ではなく、むしろ無分別な、まあ言ってみれば、自由な精神の持ち主で、言葉は悪いですが、何でもありの人、いい意味の優柔不断、どちらだっていいとする人、大阪人的ラテン的人間です。要するに物事を決めつけない人です。ところが、学校教育が介在すると、妙な道徳性を植え付けここで僕が言おうとしている複数人間は、別に病的なものではありません。本誌編集部の田中さんが「ひとりの人間が違うものの見方ができる、別の視点をもつ自分が複数いるということ?」と話していますが、ハイ、その通りです。それを僕は、小さい複数の私と呼んでいるのです。人間は元々、矛盾をはらんでいます。昨日の自分と今日の自分が違っている。そんな存在ではないでしょうか。また、それでいいと思います。でも中には、大変真面目な人で、カタマッタ考え方から一歩も抜け出せないような頑固な人も以前、ユング派の心理学者、河合隼雄先生と公開対談をしたことがあります。その時、先生が「人間は元々、複数の性格をもっています。だけど、そうじゃなく、単一な性格の人もいます」とおっしゃったことがありました。複数というのは多重人格という意味ではありません。多重人格は一種の神経症で、トラウマなどが原因で一人の人間の中に全く別の人格が複数存在します。外見は同一人物ですが、全く別の人格をもってしまう。性格や言葉遣い、筆跡も全く別人のように異なり、性格の多面性とは別のものです。美術家横尾 忠則撮影:横浪 修神戸で始まって 神戸で終る Tadanori Yokoo複数人間とは先月『自分とのコラボレーション』に登場した“複数人間”。横尾さんの中にいる“たくさんの小さい自分”とはどういうことか、一歩踏み込んで聞いてみました。12

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