KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年11月号
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居は現在の兵庫県中央労働センターの敷地内にあった。神戸で暮らしながら、好奇心旺盛な彼は、大阪、京都など関西一帯を歩き取材する。神戸で暮らし始めたころの彼の充実した暮らしぶりを示す、こんな興味深い一文が、この書の中で紹介されている。《言葉で表せないほど大阪が気に入りました。京都を除けば西日本で一番興味深い都市に違いありません……。東京に一〇年間、家賃無料で住まわせてやると言われても、わたしなら大阪に一か月暮らすほうを選びます》八雲のこの本音は、神戸っ子や大阪などで長年生活する生粋の関西人にとって、何ともうれしくも光栄な感想ではないか。新天地・日本で彼の人生を大きく変えたのは、妻となるセツとの出会いだった。=続く。(戸津井康之)新天地・日本へ1986年に彼は欧州から渡米するが、友人へ宛てた一通の手紙が、その理由のすべてを物語っている。「ラフカディオ・ハーン 日本のこころを描く」(河島弘美著、岩波ジュニア新書)のなかに、その手紙の詳細が綴られている。《山師のおかげでわたしの一家が財産をなくしたあと、ロンドンでの一年を除けば世間というものを知らなかった一九歳のわたしは、アメリカの一都市の舗道に一文無しで放り出され、自活していかなくてはなりませんでした。苦労しました》社会のどん底でもがいていた19歳。新天地、米・シンシナティで彼の人生は大きく動き始める。彼の運命を変えたのは、この街で出会った一人の男、印刷屋のヘンリー・ワトキンの存在だった。この書のなかで、《ハーンの一生の方向がこのときに決まったと言っても過言ではないほどの、重要で幸運な出会いでした》と解説されている。ワトキンは、住む住居も決まっていなかった彼を、自宅に寝泊まりさせ、印刷技術を教え、仕事も世話したという。何よりも重要なのは、この頃、博学のワトキンは、彼に文章を書くための知識や技術を伝授していた。二年間、ワトキンの家で世話になった後、彼は「シンシナティ・インクワイアラー」という日刊新聞の記者として採用される。彼が渡米し、3年が過ぎようとしていた。彼が書く記事のジャンルは、書評や自然科学、芸術など多岐にわたった。ギリシャで生まれ、欧州各国を転々とし、渡米し、記者となった彼は、1890年、米の出版社の通信員として来日する。40歳のころである。だが、やはり日本へ来ても彼の流転の人生は変わらなかった。米の出版社と喧嘩して通信員を辞めると、英語教師として松江、熊本の中学校などへ赴任し、1894年、神戸へと辿り着く。英字新聞「神戸クロニクル」の記者として採用されたのだ。住119

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